みかんコレクティヴ 展

廣瀬智央個展 みかんコレクティヴ
日時:2022年10月6日(木)~10月16日(日)
場所:田辺市秋津野ゆい倉庫

みかんの作業倉庫を利用した「みかんコレクティヴ展」の展示風景


本展は、2022年に開催された紀南アートウィーク「みかんマンダラ」展の一環として、和歌山県田辺市秋津野のゆい倉庫にて開催された廣瀬智央の個展である。展示は、のちに展開される〈コモンズ農園〉の構想を予感させる重要な起点となった。

中央にみかんの皮を漉いた紙作品とビデオ映像作品《みかんコレクティヴvol.1》

本展では、みかんを単なる農産物や視覚的な対象として扱うのではなく、その背後にある時間や関係性に着目した。作品は完成されたオブジェとして提示されるだけでなく、素材となるみかんを育てる過程、そこに関わる人々の交流や思考の蓄積を含めた「プロセスそのもの」を作品として捉える試みであった。

様々なみかんジュースを利用した作品

この発想から、みかんを育てる農園の立ち上げが構想される。育てること、関わること、時間を共有することを通じて、人と人、人と自然のあいだに新たな関係が生まれていく。その過程を開かれた場として持続させることが、アートの実践となりうるのではないかという問いが、本展の核にあった。この長期的な構想の中心に位置づけられたのが〈コモンズ農園〉である。農園は、実際に柑橘を育てる場であると同時に、多様な人々が関わり、異なる価値観が交差する「見えない関係の場」でもある。時間の経過とともに、農園にはさまざまな出来事や実践が重なり、風景や意味が更新されていく。

園地が見つかるまで里親に育ててもらう苗木

また、本プロジェクトに関わる人々の協働の枠組みとして「みかんコレクティヴ」が構想された。これは、知識や経験、時間を共有しながら、ともに考え、関係を育てていくためのゆるやかな集まりである。所有や効率とは異なる価値観のもとで、人々が関わり続けるための一つの実践として位置づけられている。「みかんコレクティヴ展」は、作品と農園、制作と生活、個人と他者といった境界を横断しながら、アートのあり方を問い直す試みであった。そしてその問いは、現在進行中の〈コモンズ農園〉へと引き継がれている。

写真作品《みかんの旅》
ドローイング「みかんマンダラ」

藏光農園 (和歌山県日高川町)

藏光農園は、和歌山県日高川町にある柑橘を中心とした家族経営の農園である。主にみかん類や梅を栽培し、 低農薬・除草剤不使用を基本とした、味を重視する栽培方針を特徴としている。先代から続く環境への配慮 と身体感覚に根ざした農法を受け継ぎつつ、現園主は独自の工夫と試行錯誤を重ね、持続可能な農業経営を 実践している。JA出荷に加え、インターネットを活用した直販にも早くから取り組み、生産者の考えや栽 培背景を直接消費者に伝える関係づくりを重視してきた。地域のブランドに依存せず、「藏光農園の柑橘」 としての価値を丁寧に発信している点も特徴である。また、地域とのつながりを大切にし、農家同士の情報 共有や次世代育成にも積極的で、高校生を対象とした農業体験・農育の取り組みなどを通じ
て、農業を地域 の将来につなぐ実践を行っている。藏光農の園主、藏光俊輔・綾子ご夫妻にインタビューを実施した。

インタビューに答えてくれる藏光夫妻

蔵光農園インタビュー要約

インタビューでは、「農業とアートの関係性」を入口として、藏光さん自身の農業観・人生観・地域観が語られると同時に、〈コモンズ農園〉の思想と実践がどのように響き合うのか、具体的な経験と言葉を通して丁寧に浮かび上がってくる。



農業「が」アートか、農業「と」アートか
冒頭で藏光さんは、「農業がアートなのか」「農業とアートなのか」という言葉のわずかな違いに立ち止まる。その問いは、農業を単なる生産行為としてではなく、創造的な営みとして捉え直すための重要な入口となる。議論を重ねる中で、農業は自然条件や時間、身体感覚と向き合いながら判断を積み重ねていく創造的プロセスであり、その点でアートと本質的に重なっているという認識が、対話の中で共有されていく。



原風景としての自然体験と農業への肯定的記憶
藏光さんは、幼少期に自由な考えを持つ農家としての父と川で遊び、自然の中で自由に過ごした体験を、自身の原風景として振り返る。農作業を「やらされるもの」として経験しなかったことが、結果的に農業を肯定的で豊かな営みとして記憶する土壌をつくったという。この「強制されなかった自然体験」が、後年の農業選択にも静かに影響を与えていることが語られる。

子供の頃に父とよく遊んだという日高川

一度外に出て、戻るという選択
大学進学を機に都会での生活を経験し、地方と都市の双方の価値を実感した上で、卒業から約8年後に帰郷する決断を下す。両親からは「農業だけはするな」と反対される中で、藏光さんは「楽しく、きちんと生計が成り立つ農業」という自分なりの条件を掲げ、就農を選択する。この過程には、理想論ではなく、現実と向き合いながら選び取った職業としての農業観が表れている。

世代交代と独自の経営スタイル
父の代から続く低農薬・除草剤不使用の方針を引き継ぎつつ、みかんと梅を主軸に経営を再構築。JAの評価軸では不利になりがちな「見た目より味」を重視する姿勢を、直販やインターネット販売によって丁寧に伝える道を選ぶ。市場の基準に合わせるのではなく、自ら価値の伝え方を設計する姿勢は、農業を表現行為として捉える視点とも重なる。

畑のなかでの藏光夫妻

地域との関係性と「分散型」の理想像
日高地域では農家同士の横のつながりが比較的強く、情報や経験が共有されているという。藏光さんは、一人の突出した成功者が地域を牽引する「一強型」ではなく、複数の自立した農家が緩やかに支え合う「分散型」の構造を理想とする。農業は個人の成果ではなく、地域全体の底上げによって持続可能になるという考えが具体的な地域像として語られる。

時間の感覚としての農業
果樹農業は年に一度しか収穫できず、やり直しや早送りがきかない営みである。藏光さんは、この「待つしかない時間」「過程そのものに身を置く時間」にこそ価値があると語る。効率や即時的な成果を求めがちな現代社会に対して、農業は異なる時間感覚を提示しており、それを他分野の人とも共有したいという思いがにじむ。

農育(農業×教育)への取り組み
高校生を対象に、農作業と対話を組み合わせた「農育」の実践にも取り組んでいる。農業を職業の一選択肢として知ってもらうだけでなく、地域の特産や暮らしを自分の言葉で語れるようになることを重視している点が特徴的である。これは個人の進路支援にとどまらず、地域全体で農業を考えるための教育的試みでもある。


藏光さんが作る農園のオリジナルTシャツ

コモンズ農園への共感
異分野の人々が集い、作業や食事、対話を通じて関係性を育てていく〈コモンズ農園〉の構想に対し、藏光さんは強い共感を示す。明確な成果や効率を求めるのではなく、「過程そのもの」を共有する姿勢が、農業が持つ時間感覚や価値観と深く共鳴していると評価する。


農業とアートの共通点
対話の終盤では、私自身の作品経験を踏まえながら、農業もアートも「循環」「プロセス」「意味を自ら生成する営み」であるという認識が共有される。自然に抗えない時間の中で生きることが、人の感覚や思考を豊かにするという点で両者は重なり合い、インタビューは静かな確信をもって締めくくられる。


畑を一緒に回りながらみかんの被害状況を語ってくれる藏光夫妻


〈藏光農園〉から考えるコモンズ農園

和歌山県日高川町にある藏光農園は、単なる柑橘生産の場にとどまらず、自然・時間・人の関係性を編み直す実践の場として位置づけることができる。その営みは、「農業とアート」という二項対立的な枠組みを超え、創造性が生き方として立ち上がる地点に静かに立っている。

藏光農園の農業は、効率化や拡大を第一義とする近代農業のモデルとは異なる。低農薬・除草剤不使用を基本とし、見た目よりも味や身体感覚を重視する姿勢は、自然を管理対象としてではなく、応答すべき他者として捉える態度に基づいている。これは、アートにおける素材との関係性 「コントロールではなく対話」とも深く通じている。

特筆すべきは、藏光農園がもつ時間感覚である。果樹農業は年に一度しか収穫できず、成長の速度を早めることはできない。この「早回しのできない時間」は、成果や結果を即時に求める現代社会のリズムとは根本的に異なる。藏光農園の実践は、過程そのものに意味を見出し、待つこと・手を入れ続けること・変化を受け入れることを価値として引き受ける。この時間感覚は、完成よりもプロセスを重視する現代アートの思考と重なり合う。

また、藏光農園は「個の成功」を目的としない。大規模化や一極集中を志向するのではなく、複数の自立した農家が地域に存在することが、地域全体の持続性を高めるという分散型のビジョンを持っている。この考え方は、〈コモンズ農園〉が目指す「共有される場」「特定の主体に回収されない実践」と強く共鳴する。農園は所有物ではなく、関係性が交差し続ける場=コモンズとして立ち上がる。

さらに藏光農園は、農業を閉じた専門領域にとどめず、異分野との接続を積極的に受け入れている。高校生を対象とした農育の取り組みは、単なる体験学習ではなく、農業を職業・生き方・地域の問題として語り直す場である。ここでは「正解」は与えられず、時間をかけて理解し、考え続ける姿勢そのものが育まれる。

この態度もまた、教育を成果ではなく生成のプロセスとして捉えるアート的実践と重なる。
〈コモンズ農園〉が志向するのは、農作業・食・対話・滞在といった複数の行為が重なり合いながら、異なる背景や価値観をもつ人々が出会う「生成する場」である。藏光農園の実践は、その理念に対して、現実の農業の時間と身体を通して応答している。昼に畑で手を動かし、夜に食卓を囲み語り合うという循環的な構造は、アートが社会の中で担いうる役割「意味の回収ではなく、関係の発酵」を具体的に示している。

藏光農園は、農業とアートの「あいだ」に位置するのではなく、農業という行為そのものが、すでに創造的実践であることを体現している場所である。〈コモンズ農園〉の文脈において藏光農園は、理念のモデルケースではなく、時間と土地に根ざした「実践の参照点」として機能する。その存在は、アートが社会に関わる際に避けて通れない、時間・労働・自然・生の循環という根源的な問いを、具体的な営みとして提示している。



*本リサーチは、公益財団法人小笠原俊晶記念財団の助成により実施されました。

写真:Tartaruga

「みかんの旅」農園の土地について 「農地について語る中田康子さんとご家族の会話」


農地について語る中田康子さんとご家族の会話

2025年1月18日(土)13:00-15:30
場所:中田家

話に参加していた人:
いくさん(岩佐郁)
ちえこさん (尾崎千枝子・中田秀雄の妹)
康子さん(いくさんの祖母)
浩子さん(いくさんの母、和歌山県外在住)
ふーちゃん(猫・グレー)
川崎貴光さん
紀南アートウィーク(以下 KAW)

農園を担ってきた人の名前
行武明子さん(いくさんの叔母、和歌山県外在住)
中田みねさん(郁さんの祖母、秀雄の母)
 *みねさんは吉右衛門さんの娘ではなく、吉右衛門さんの妹の一人娘

本家
吉右衛門さん(拓生さん&龍生さんの父、漢文・学校の先生、農地の開墾者)
畔田拓生さん(長男) 畔田龍生(次男・みかんに注力)



農地の開墾

「すごい色やな」

「この地図書いたんは川崎さんが来てくれたとき」

「何が植わってるって話だよな。面白がりなんで、あれやこれやと植える。新品種とかあったら植えたいって言って植える。だけど結局、だんだん年取って、手もまわらなくなる。剪定もできなくなる。で、そういうものほど早く枯れていく。今残っているのは夏みかんとか八朔とか原種に近い品種。金柑の一部分とか」

あきこさん(浩子さんの姉)が川崎さんのために、園地の混植状況をわかりやすく示した図(2017年秋作成)

「ここは新家なんですよ。だから本家の畔田さん、吉左衛門さんていう学校の先生をしたり、漢文の先生したり、趣味人の先生の妹の一人娘だったみねさん(康子さんの姑)が男の方と結婚して今の家を開いたと。だから100年ぐらいしか経ってないっていうのはそこなんですよ。」[1926年・大正15年/昭和元年ごろ開墾、畑を譲り受ける]

「だから畑の方はみかん畑を譲ってもらったんですよ。開墾したのは、畔田家。この龍ちゃんって言われている方々、次男さんの方かな、山の奥とか、はい。稲成(町)の奥とか、いろんなところに開墾してはみかんを植えて、みかん畑を作ったって聞いてます。だからこの辺の紀南のみかん産業ってそんなに古くはないって。元々、安藤みかんとかありましたけど、基幹産業とかじゃなかった、って聞いてます。だから開拓をすごくしたのは畔田さんたち。ばあちゃん達は、なんていうんですかね、小作をしたり、金柑ちぎりに行ったり、そんなんしてたんやけれども、もう農地開放もあったし、おまはんらも作るかということで譲ってもらった。」

「秀雄さん(康子の夫)がみねさんの息子さんってことですね。教師をしてたんで、基本は三ちゃん農業で、父が教師をしてる間、女性たちが田畑を耕してた」

「(週末の手伝いも)してない。もうずっと管理職だったし、学校のクラブとか、週末も兼業農家はしていなかった。」

「退職したら楽しみにさせてあげたいっていうんで、婆さんたちが守るつもりだった。ところが退職して2年で死んでしまって。退職してすぐは接木をしたり、そういう理系の先生だったんで。そういうのが好き。自然環境とか、社会問題とかものすごく好きな人だった」 「康子さんと義理の妹が(畑を)守らないといけないの!自分たちが苦労して譲ってもらって守ってきた畑だからやりなさい、って。ずっと働いてきた。」

家族と農業の関わり

KAW「ちなみに畑は面白い植え方をされてますよね?慣行農業らしくないというか、、」

浩子「面白そうなものがあれば「植えたい!」って母(康子さん)と叔母(義理の妹・尾崎さん)はそういうところは気が合ったみたいで。その、商売をいっこも考えられなかった。本当に趣味の園芸をしてた。(農協に)出してもコンテナ一杯、5円とか10円の時代に「農薬嫌い」なんて言ったら商売できませんもんね。(市場には)自転車につんで行ってましたよ。父が車いらんしって言って。ずっとそういうエコロジーなことを言って。自動車免許もなかった。父が車いらんしって言って。自然環境によくないって。」

KAW「エコ的な理由で車の免許をとられなかったんですね」

浩子「昔は(家の)裏の道がまだ畑につながっていたから、子供がお昼のお弁当なんかは持って行かされた(笑)で、手ぶらで(畑から)帰ってきたら怒られるから、薪を持って帰ってくるみたいな。父(秀雄さん)がこういうの好きだったんですよ。(康子さんは)よー苦労して頑張ったと思います。」

KAW「康子さんの好きなみかんは何ですか」

康子:「そりゃ、温州や」

浩子:「そうやったん?!それは知らんかった。三宝柑と違うん?」

郁:「(温州みかんが好きなのは)剥きやすいから?」

康子:「うん」

康子:「あそこの下の道怖いんや」

郁:「龍神山への入り口で鳥居のある道?」

康子:「そうそう」

郁:「あそこ一回落ちたよな?」

川崎:「途中で?」

郁「そうそう、だから崖側に落ちてたら死んでたんやけど、そのまま道なりに一回転したから何とか生き延びた」 康子「下(道)から行ったら怖いよ。けど(ブドウ園近くの)あの道は一応、市の道になってるけど、自分の畑の中通られたらやっぱりええ気せんからな」

康子「みな、やわらかくなったよ」

浩子「何が?人が?環境が?」

康子「人よ」

浩子「畑の周りの人が優しくなってきたようです。女なのでなめられるんですよ。」

郁「ほんまにそう。女世帯でこんなんやってるの珍しいもん」

(休憩:和三盆とお茶をいただく。以降は、茶飲み話のように浩子さんを中心に康子さんやいくさんの言葉が重なるように交わされるので、話者の名前は省略。一部終戦時の話題だけ語り手が分かるように明記。)

「本当に急にやっぱり高度成長期に皆さん開墾したんで、この辺も本当に何もなくて、ただの雑木だったんですよ。だからここら辺に畔田さんたちの佐向谷の谷川があって、ずっともう何もない本当に雑木林だったんですよね。それをもう本当に刻むようにミカン畑にして。だから私らが子供の頃、50年前とかでしたら、もう本当にせせらぎとリスが走ってたりするようなところだったんですけれども、今はもう囲いをして」

「ここ(家)の裏も里山だったんですよ。フランコ作ったり。みかん開拓して、それがもうこの暑さで、また駄目になっていく。次は今バナナとか」

KAW「そうですね。今、みかん農家さん達もアボガドとか植えはじめて」

「アボカドは難しんだよ〜。カーメン君が難しいって言ってるんだよ」

「Youtubeのカーメン君ですか?」

「そう、そう」

「たかじの山は猿はきぃへんの?」

「猪はくる」

「アライグマもくる。ハクビシンも。」

「ここ最近アライグマ多いんやで。」

「鹿とか猪ってなると、境界の話になるよな。防風林、畑の境界に植えてあったろ?」

「康子さんが防風林のマキの木を植えたよな。やっぱり風、海風がどんどんはいってくる。でも、その塩水がいいっていう話もあって、海の見える丘って、この辺では南斜面の海の照り返しとか。ただ、風が強いんで防風林が増える」

KAW「康子さんはいつから畑されたんですか。何歳ぐらいから畑にいきましたか?」

「しばらく図書館にいってるって言って。引揚げてきて女学生さんで、その頃に田辺高校の、昔の田辺高校ですけどね、浜の方の。図書館司書においでって先生に呼ばれて。そして見合いがあって秀雄さんと一緒になった。」

「(今は)人生いっぱいこんなに選択肢があるんだったら、(おそらく母は)絶対他の仕事してた。」

「農村部はなかなかね」

「私たちが学校とか行ってるときは、ずっと畑に行ってました。朝、誰よりも早く起きて、お弁当とかも作って。オーバーワークしてて。40歳ぐらいのときかな。それまでは姑のみねさんが主で畑をしてた」

「みねさん60(歳)半ばまで何とか田んぼしてたよな」

「みんなに助けられてん」

「みんなって誰よ?」

「町の先生方。生徒さんにも助けられたよ。お父ちゃん(秀雄さん)に可愛がってもらったからな」

KAW「助けてくれた人に、できたみかんとかを渡したりしたんですか?」

「年末とか学期末っていうと、あの人にお世話になったって言って配って周りやった」

「お父ちゃんもあっちこっちの学校で用事あったんや。あげたさか。」

「無農薬というのも、おばあちゃん達からしたら誇りだった」

KAW「日本にはいくつの時に引き揚げましたか」

康子「女学校一年生の時。13歳ころ。1932年生まれ」

「平沢(大韓民国京畿道南部、Pyeongtaek)で買うとった家と屋根が飛んでん。これはおかしいなと思たら、終戦だってん。平沢にも先生おってな、お腹空いたら先生におごってもろてん」

「むこうでは楽しくオオカミ犬を飼ったりしてた。朝鮮半島の狼と自分家の犬が交配して」

「ペ・ヨンジュンの『冬のソナタ』なんか見て、昔の風景に似てるんかな、景色がやっぱり。木が一つも生えていない。中国とかは全部刈ってしまうんみたいで、それが嫌だったらしくて。(康子さんの)父親が木を(住居の)周りには植えてな。木を植えて植林せなあかんとかいろいろ向こうでしてたんで、言うほど、手のひらを返したように(敗戦のときに)いじめられたりしなかったと言うてました。」

康子「イワン農場って」

浩子「イワンの馬鹿みたいなそういう理想主義なお父さんに育った娘(康子)が、なんか今のようなエコロジーの塊みたいな旦那(秀雄)と一緒になったというこのようになったとさ。」

康子「この間、ひょっと夜、朝鮮の歌思い出してよ。(実際に歌ってくれる)」

康子「アリアリラン〜 ♪、スリラン〜 ♪っていうやつ。今は汽車通りやんねと。 平沢から」

浩子「(韓国に一緒に)いくか?って言ったけどいかん。」

KAW「こっち(日本)に戻ってこられたときは日本語は喋れたんですか?」

浩子「親が日本人なので、向こうでも日本語で喋ってたみたいで。多分(韓国語)を喋ってないと思うんよね」

KAW「でも(韓国語の)歌を覚えてるんですね」

浩子「まあ、働いてくれた人はむこう(韓国)の人やけれども」

浩子「学校もそういう政策だったから。日本語がメインだったはずやから」

康子「いろんなこと忘れてしもた」

康子「ま、おまえ(浩子)には苦労させたな」

浩子「あー!六十年後のねぎらい(笑)」

康子「なっとうするんですか?」

KAW「更地にはしません。」

「廣瀬さんがイタリアにいると聞いてて、誰が管理していくのかな。誰ができるって思っていたんですよ。畑の上に家を建ててくれていいよ(笑)叔母はずっと言ってました。『私があそこに住んでたら一日中やってるのに』って。お前らが車で連れてってくれんから家建てるって。」

「(まわりは)誰がご飯作るんよ?って。でもそれぐらいの熱意でやってきた人やから。」

「初めてシンクイムシがナッパに。もう苗がダメなんですよ。もう種から。いつもだったら11月とかに蒔いたら勝手に余裕で育つのが、もう暑いから虫がいつまでもわいてくる。キャベツとか白菜とか。もうナッパができない。こんなに虫だらけになったのはこれまでで初めてで。これ毎年だったらやってけないよねって。キャベツ高いし。だから、みかん育てるの難しいと思いません?」

KAW「やっぱり(これからは)バナナですかね(笑)」

「突然の霜で一発でダメになるらしいし」

「本当にもうボロボロになった畑にイノシシは攻めてくるし、鹿はすごいし、外来種のひっつき虫とかがものすごい生えてるのを、袋に詰めて放り出してこのみかんの塊どないすんのって売れないやんってようなものを、もう近所にもらってとか言って配って歩くみたいな。何十年かやってきて、もうこれ以上頑張れないと思って。うん。うん。うん。思ったんよ。だからもう母もやめとけばよかったなというぐらい。うん。さいご娘(郁さん)があんなに面白がってくるとは思ってなかった」

「もうあと何でもやってなみたいな。近所の、その親戚のおばちゃんとかには迷惑かけられへんから。うまい付き合いしていきたいなと。(畔田の)おばちゃんも娘(郁)のことをかわいがってくれるんで、そう、いくちゃん。」

「私ら年子ではないんですが子供ちっちゃいときは、もう家の周りでおってご飯作りなさいというかんじだったらしいんですよね。うんうん。その辺りまではそんなに畑に行ったりはしていなかったはずなんですよ。私らが離れるというか小学校とか保育所に行った頃には、もうずっと叔母が畑とか田んぼとかも朝早く起きて、お弁当も作ってみたいなものをすごいオーバーワークしてて。」

「康子さんがそうですね。ちょっと引き継いだっていう、なに30代ぐらいとかですかね。私が小学校の 5年生か6年生山下先生のときにみねさんが亡くなった。ばあちゃん死んだのが、小学校のときだったんや。」

「小学校の高学年なんてことは康子さん何歳ぐらい。 」

「10歳、いくつや、私が小学校、覚えてない。」

「はい。そうです、そうですよね。それまではメインじゃなくって、指揮を振るのは叔母だったんですねだから、おばあちゃんたちの娘で片腕として、わざわざ結婚してもここに住めと言われて、田んぼを開けてすぐ家建てて、本当にあの畑を守るために、彼女はここで暮らし続けた人やから、母(康子)はいつも、はい、はいってついていく人だったんですよね」

KAW「お米も作られたんですか。」

「あそことあそこ3ヶ所あったんで3ヶ所も3ヶ所あったやろ。」

「いつまでやった?ミカンの畑よりも先にやめた。」

「うちはな。うん、もちろん田んぼやめた、いつごろよ。」

「20年以上前は、うん。私まだ物心ついた頃やりやったろう。ギリギリやった。だから蛍見に行ったやん。佐向谷川(さこだに)にな。あの頃はやってた。だから康子さんは30歳ぐらい、今や十年前ぐらいやな。だから90歳のばばあが60歳半ばまで田んぼやってたよ」

「ガスはみねさんが怖いと言って薪で火をおこしてたよ」

「無農薬を決めたのは秀雄さん。みねさんの時は慣行農業で、でもやっぱりみんなお肌が弱かったし、うん。なるだけやめたいなっていうので下草刈ってって感じでした。そこで秀雄さん、秀雄さんが農薬あんまり使いたくないっていうことで」

「白砂糖がどうとかね、白いもんは食べんなって言われました。時代だったんだと思うんよ。アトピーとかもそうやけども、本当に同級生たちも、どれだけアトピーとか多くて」

「康子さん的には、これ、どうだったんよんや。康子さんはつらかったよな。農薬よ。タンクつんで。」

KAW「畑してて大変だったことは何ですか?」

「道が狭いから車でいけんね。だから手で。」

「人力やな。「おこ」って言うんですか。天秤棒みたいなやつで。籠、両方につけて降ろしてきたりとか、子供にも手ぶらで帰らせてくれんとか」

「市場へも(農作物)持ってってんよ」

KAW「市場に行く時、車がなかったら大変だったんと違います?」

「五十(歳)でとってん」 「おんとし50にして免許センターに通いました」

「ちょうど父が定年で、定年後、父を畑に連れて行ってあげないといけないという気持ちで。歩いて行ってた時代もあるけど、バイクも滑るから危ないし、父をのせなきゃいけないと言う気持ちで取りに行ったんですね」

「市場には何でも売りに行ったって言いやったよな。」

「あるもの全然食べさせてもらえない。全部あるもの何でも売る」

「むきらっきょとか(他の人と)競ってた」

「庭のザクロも持ってたん?」

「これで家を維持してきた。」

「文字通り何でも売ってきた」

「正月みかんも結構売れた」

「でも天皇崩御の時には捨ててんな。全然売れなかった。その年はめでたいことはしないと言う理由で」

「それが(正月みかん)が一番の稼ぎだったな。それと金柑。丸金柑はもっと後やで。長金柑、子供の時に採るの辛かった。金柑が主力だった。」

「丸金柑が高く売れたっていうてたの覚えてるわ。それでも1キロ500円、私が覚えてるくらいやから、20年か30年前の話やけど。

「何でも持っててん」

「でも、それはよっぽどやで」

「市場に持っててもクズみたいな感じやから、親戚の人とかにお裾分けして、そのお返しで食い繋いでた時もあったわな。そういう繋がりだったんよな」

「こんな乙女が農業してるとはって、女学生の時の友達とかが言ってましたよ。文化学園で洋裁学校の司会をしてたりとか、図書館司書だったりとか、周りから見たらなんか文化人って思われてたのに、なんかすごい活き活きと(農業を)やっている。気楽に。あの康ちゃんがねって。戦争を超えてきたから逞しいんだよね」

「おばあちゃん死んだ後、(畑が)きたないって言われたらあかんと思って」

「肥を(畑へ)もって上がってんで。人糞。長いこと水洗じゃなかったからね。本当にでも山の上まで持って行った。」

「田んぼとか、肥というのは知ってましたけどね」

「どういう風に(人糞を)まいてたんですか?」

「種まく時に」

「(畑に)置いといて、やっぱり肥は昔、野壺ってあったでしょ。そこにいれて発酵しないと、じかにやるとよくないでしょ。下肥っていう物にして」

「高校でたら、(田辺に)帰って来れないんですよ。特に女子。男の人達は後取りやからとか、やっぱり田辺好きやとか言って帰ってくるんやけど、女性達は田辺に帰ってきても仕事ないやんとか。男性は田辺好きが多いけど、女性は「そんな男尊女卑なところ嫌」結構おっさん達にいじめられているから。バリバリの農家さん怖い!みたいな。」

「自分の知っている、10代の頃、手伝っているときの畑は草1本はえていなくて。みかんの木のまわりにシダとか敷いてあって、その下に肥料、牛糞じゃなくて魚の粉みたいなのとかあんなんを入れて、家からいつも増施(ぞうし)と言ってたけども、野菜かすとか、そういうものを持って上がって埋めておく。そして、あいてる所は全部耕して、葉っぱものから何から野菜いや、こんにゃくとか何でも植えてあって、そこで(野菜などを)取りながら、みかんの世話をする。防風林は低かったから、畑から海が光っていて船がみえる。みかんの唄(みかんの花咲く丘)ってあるよね。ほんとうにあの通りの風景。」

「(紀南アートウィークに)まぁ、私らようせんから任せておいたらいいよ」

廣瀬智央「コモンズ農園」プロジェクトが問いかけるもの

秋津野のテリトーリオがもたらす拡張されたアルテ・ポーヴェラの可能性

石倉敏明



1.みかんの領分

ここに一つのみかんがある。それは手のひらに収まるほどの、小さな食べ物に過ぎない。私たちは指で皮を剥いて、そのまま口に放り込むことができる。丁寧に薄皮を剥き、絞ってジュースにすることもできる。外皮を乾燥させて陳皮酒などの材料にしても、砂糖漬けにして活用しても良い。皮に含まれる油分を利用すれば掃除にも使えるし、精油や蒸留水に加工することもできるだろう。素材としてのみかんは、実にさまざまな用途に開かれている。

しかし、みかんを作ることは、それを使うことほど容易ではない。自然と人間、時間と労働、空間と環境、地域と経済といったさまざまな関係性を調節し、さらに病気や災害、害虫など干渉する阻害要因を取り除き、やっと植えられた一つの苗木を育成できるようになる。そのために土と水と光は、根本的な条件となるだろう。一般的に、一本の苗木からみかんが実るまでに5年以上の時間がかかり、それから恒常的な収穫が見込めるようになるまでにはさらに数年、収穫が安定するには10年ほどの時を要するという。そのためみかん農家は目先の利益だけではなく、長期的な時間軸での収穫を計画し、苗木からみかんを育て、その品種が適切な状態に育つように配慮する。 果樹栽培に特有のこうした時間軸は、少なくとも数十年単位で家族や地域、さらに自然環境や気象条件のことを考えて行動するという、長期的な関心(長期思考)を育む。そのことは、わずか数秒から数日といった短期的な関心(短期思考)によって駆動される現代の人の経済行動にとって、根本的な批評性を持つ可能性がある。長期思考は、目先の利益にとらわれるあまりあまりにも混乱し、かえって多くの問題を引き起こしている現状を変える可能性を持つという。思想家のローマン・クルツナリックはそうした長期思考による未来に向けた主体のあり方を「グッド・アンセスター(良い祖先)」と名付けた[1]。長期思考は、現代を生きる私たちに、自己の生まれる以前の世代と今後生まれてくる世代を架橋する意識を芽生えさせ、私たちがどうすれば未来の世代にとって良い祖先になれるのか、という責任を与えてくれるのだ。

一つのみかんは、一本の木に、その木は一つの農園に、その農園は一つの地域に、その地域は一つの社会に、その社会は地球という惑星に開かれている。その主根は世界と存在の秘密に関わり、複雑に絡まり合う側根は土と菌根の多様性に結びつく。根から吸い上げられる水分は、地域の水系や流域を通して風土そのものへ、気象や土壌の条件へと生命を導く。その幹は細胞壁という精妙な機構を通じてこの地球上に根を張りつつ、天空へ伸びることを可能にする。その葉は太陽の光と雨の恵みを受け取り、これをあらゆる生命活動へと変換する。一つみかんを作ることは、こうして一つの生きた景観と結びついて生命環境を形成し、そこに生きる人々の暮らしと経済を造形する。

ヨーロッパ屈指の農業国として有名なイタリアでは、こうした人々の暮らしを支える生命環境を「テリトーリオ」と呼びならわしてきた。無理やり日本語に翻訳するなら、それは「風土の領分」ということになるだろうか。テリトーリオの思想は、地球全体を均質な資源に満たされた球体と考えるグローバリズムとも、国家単位で経済社会を維持しようとするナショナリズムとも異なる。それは、ある地域の現実について、都市と農村を分割することなく、惑星的な全体性とその土地に固有の環境特性を生かし、地域の風土が持つ特性を潜在的なコモンズ(共有財)として理解し直し、コモニング(共有化)することで維持される。イタリアでは、例えば食材の生産地である農村での農業体験、食を通した観光や環境教育を通した都市との交流を深めることで、各地の風土に根差したテリトーリオが活性化しつつあるという[2]。 同じことが、現在「コモンズ農園」が広がりつつある日本の和歌山県でも言えるだろう。そこでは土地に根付いたみかん農園の活動を新たなアートプロジェクト(紀南アートウィーク)や環境特性に応じてデザインされた観光体験と接続することで、地域のポテンシャルを再評価する新たな動きが芽生えつつある。ある地域でのみかんの育成は、風土に関わる生命環境への意識を育み、さらにそこから独自の経済と価値観を涵養する「バイオ・リージョナリズム(生態地域主義)」へと私たちを導くのだ。それは、人間が恣意的に分割した土地管理ではなく、分水嶺や水系、地層、植生、生態系といった地域特性によって支えられる思想である。その土地に固有な「バイオリージョン(生態地域)」の特性を意識し、固定化と流動化、光合成と物質代謝、生成することと腐敗することのあいだでバランスを取って生きるイタリアのテリトーリオ思想は、温暖な気候を活かして多種多様なみかんを育成しようとする紀南の風土産業と響き合う。 みかんを作ることは、必ずしも、絶対的な条件のもとでの収穫の最大化や経済的な収益といった指標の獲得を意味しない。それは、むしろある地域の気象や地理的条件、生物進化の歴史を背景に育まれたテリトーリオの歴史に、果樹農業という具体的な人間の営みを位置付けることだ。みかんという果実は、それだけでは日常的に消費されるありふれた食べ物に過ぎない。しかし、一つのみかんを通してテリトーリオを味わう時、私たちは食文化というヒトという種の中心性に安住する代わりに、不確定性の中で植物の育成を試みる古くからの農の営みを再発見し、互いに絡まり合い続ける複数種の生命と種間の応答の煌めきに気付くことになる。


2. 秋津野のテリトーリオ

イタリアのミラノに居住するアーティスト廣瀬智央は、和歌山県田辺市の人びとと共にみかんの育成と農園の共有化を目指す「コモンズ農園」の活動を行ってきた。これは、それぞれの参加者が知恵や経験を持ち寄って運営するみかん農園の構想で、2022年には、秋津野(上秋津)地域の農家が共同出資した「秋津野ゆい」の倉庫を会場として展示を行い、また希望者に蜜柑の苗木を育ててもらう《みかんの苗木の旅》というプロジェクトもスタートした。この活動体は、地域や農業とアート、哲学、人類学、植物学、デザインなどの接点を探る「みかんコレクティブ」を母体として、今では秋津野を活動拠点とする広域的なネットワークとして成長しつつあるアートプロジェクトだ[3]。

秋津野地域の地域史は、少なくとも弥生時代まで遡ることができる。古くから恵まれた水資源を活かした暮らしが生まれ、平安時代には藤原氏の荘園として栄えた。その後も棚田による水田耕作が行われてきたが、明治以後にはみかんをはじめとする柑橘類を主要な生産物として栄え、ウメなどの生産も盛んである。 秋津野の地名は古事記・日本書紀などの古伝に「速秋津比古神・速秋津比売神」「速秋津日命」とあることから、おそらくは神話上の「秋津島(大和・日本の別称)」の語源となった収穫の時期に飛来するトンボ(秋津)ではなく、水源地から様々な水流として海に至る河川水系の信仰によるものだろう。秋津野には右会津川、佐向谷川、久保田川、稲谷川という四つの川が流れている。主流は虎ヶ峯を水源とする右会津川であるが、これらの流域を一つの文化的景観としてまとめているのは、高所から低所へと流れる豊富な水の存在である。川上神社の祭神である瀬織津姫は上流の水源と関わりのある神格だが、別の祭神である速秋津比古神・速秋津比売神は大祓で川に流された穢れを呑み込む神格であるとされる。その穢れは近代的な観念での汚穢ではなく過剰エネルギーと考えれば、これらの神は流域から流れる水を受け止め、活用する上での重要な標識とみなすことができる。これらの神々は明らかに、水の循環とその活用を司っている。

秋津野のテリトーリオは、こうして広域的な分水嶺を基礎としつつ、それぞれの地域の土壌を生かした農業を最大の特徴としている。田辺地域のみかん栽培は1600年代に遡り、柑子から始まり九年母小みかん、金柑が試作されてきたという[1]。上秋津の地域ではこうした初期の試みを受け継ぎながら、とりわけ農薬や肥料に依存しすぎることのない、環境に配慮したみかん栽培が営まれてきた。また、単一品種の大規模栽培を前提とするものカルチャー経済に偏ることなく、土壌の水捌けや土の特性に合わせた、多品種のみかん栽培を行ってきた地域でもある。廣瀬がこの土地に関心を持った契機は、その環境特性や多様性の尊重という条件と切り離すことはできない。

廣瀬が「コモンズ農園」を展開するこの地域では、市民が自ら土地の歴史を探り、古い言い伝えや土地の利用法といった地域文化を学ぶ取り組みが継続されている。こうしたコミュニティーの特性は、それが大都市圏の市民活動のように人間と人間のケアのあり方に閉じられることなく、農業や林業をはじめとする生業の継承、地域の自然環境に対する深い関心と観察、すでにこの世界にはいない古い世代が残した物語や伝承といった、人間ならざるものへの強い好奇心に駆動されている。それは天水田と芝の狩り場、植林地帯の管理を季節に即して行ってきた熊野の山の環境と民俗を基層としつつ、果樹という商品作物の栽培によって新たな生活様式を築き上げてきたこの地域の温故知新の気質に根差した地域文化を最大限に生かそうとするプロジェクトである。

廣瀬智央《熊野ラディーチ_05》2022年

3. 熊野のコモンズと南方熊楠

野本寛一『熊野山海民俗考』によると、紀伊半島は巨石や奇岩に溢れ、湯と川、山と海のダイナミックな対比をもとに、散在する高地集落と海岸の漁村を結ぶ自律的なネットワークを持った地域風土を形成してきたという。さらにこの地域には、各地から死者の魂が集まるという霊山信仰と、山々をめぐることによって象徴的な蘇りを果たすという修験道の再生思想が伝承された。この土地には、特異な自然地形を聖地とするアニミズム的な精霊信仰を基層として、記紀と深く関連する日本神話の神々の伝承が息づき、さらには熊野本宮を中心とするアジア起源の仏教思想が重層する。熊野が死者の供養や霊的な浄化、巡礼による精神修養の目的地とされたのは、このように自然景観と人間の歴史が重層するコスモロジーによって、この土地が日本列島全体にとって特別な聖地であるという意味づけを与えられたからにほかならない。

とはいえ、江戸幕府が全国統治のために整備した稲作中心の年貢経済が、明治以後の貨幣中心の経済に移行する際には、熊野にも大きな精神的危機が生じたようである。年貢米の徴収によって米を中心とするコスモロジーによって全国を統治していた近世の統治体系が崩れた後、熊野では江戸後期から広まっていた柑橘類や梅の栽培が急速に広まっていった。水田から果樹園へと様変わりした里山の風景は、社会のあり方をも激変させる。稲作を前提として作られてきた日本の暦は、稲の収穫を感謝するイベントとして秋に大きな祭りを行うことが織り込まれている。ところが、梅の収穫は6月、柑橘類の収穫は12月から3月にかけて行われるため、神道の前提となる季節の運行とは異なる植物と人間の関係が形成され、これが氏子を中心とする神社神道の維持を難しくした可能性がある。志村真幸によれば、明治期の熊野地域で極端に進行した神社合祀運動とそれに伴う神木などの植物伐採は、こうした生業や経済構造の変化と深く関係しているという[5]。

ところがそうした環境変化や神社合祀の名を借りた聖地存亡の危機に対して異を唱え、現代の環境保護運動の先駆けとなるような聖地擁護の論陣を張った人物がいる。田辺出身の南方熊楠は、こうして激変する明治期の熊野にあって、風土に根差した神社と鎮守の森を守ることを訴えた博物学者・思想家として広く知られている。彼は、早くから国外に出てアメリカやイギリスなどで研究を続け、日本に戻ってからは故郷の田辺を拠点としつつ、動植物や菌類、粘菌などの生態や分類に関する画期的な仕事を成し遂げた。その熊楠が重視したのが、熊野の山と森、海辺の環境、島といった地域のありふれた自然環境であった。彼は神社合祀の掛け声のもとに故郷熊野をはじめとする地域の森が伐採される事態に対して、民俗学者の柳田國男とも連帯しつつ、そのローカルな運動を全国的な自然環境の保全意識へと拡張するような呼びかけを行った。彼は、熊野で起こっていた急進的な神社合祀運動が、全国的な規模で起こっていた同様の危機や自然環境そのものに対する開発至上主義の拡大、そして神仏分離に伴って行われた仏像や仏教寺院の破壊といった原理主義的な精神運動と同根であることを見抜いていたのである。 田辺市の他の地域もそうであるように、上秋津地域も熊楠の愛好した植物や菌類、粘菌等の採集地であった。神社合祀反対と植物保護を訴え、東京帝国大学教授松村任三にあてた2通(明治44年8月21日、同29日付。「南方二書」と呼ばれる)手紙には会津川上流の奇絶峡を、地質学・考古学的に重要な岩のある絶景の地であり、珍しい植物が生息することを説いている[6]。また、彼は上秋津村の村長に川中石の保存について提言するなど、奇絶峡の保護を強く訴えていた。

興味深いことに、熊楠は江戸時代に田辺の安藤治兵衛邸に自生していた「安藤みかん」を愛好し、同市中屋敷町の熊楠邸の庭にも植えていた。熊楠は、晩柑の一種であるこのみかんの風味を気に入って、とりわけ果汁を搾って飲むことを好んだと伝えられる。熊楠はこの安藤みかんを地域の特産品として育てることを本気で考え、旧上秋津村(現・同市上秋津)の村長に苗木50本を贈っている。この安藤みかんを復活させようという農業法人の取り組みも始まった[7]。明治期の社会的変遷や近代的な科学的知識の導入を経て、風土産業としてのみかんの育成に希望を見出し、それでもなお土地の保全や風土に根差したコスモロジーを擁護しようとする熊楠の姿勢は、それから百年後の21世紀を生きる私たちにとっても大いに参考になるだろう。

熊楠にとって、みかんのような果樹栽培が盛んになることは決して否定すべきことではなかった。そして、それは即座に過去のコスモロジーを否定し、神社合祀や神木伐採を推進することを意味するのでもなかった。重要なことは、果樹栽培を通じて土地利用のあり方が根本的に変化する中で、それでもなお、風土に根付いた信仰や生活文化を守るために何ができるのか、ということだ。そこで熊楠は、日本の社会秩序を支える稲や米について言及する代わりに、神社という空間が持つ潜在的な生物多様性や里山という空間の持つ文化的価値を強調することで、神社合祀に異を唱えた。そして、国や自治体のような上からの力によって一元的に精神のあり方や経済、社会制度などを改変するのではなく、自然と民衆の力によって共有されるべき叡智の範囲を決め、人間以外の種の多様性を確保しそれらと共存する「コモニングの方法」を示したのである。 廣瀬と田辺市の市民が一緒に立ち上げた「コモンズ農園」は、明らかに以上のような熊楠の精神を受け継ぎ、「コモニングの方法」を複合的な芸術実践の手法によって更新しようとするものだ、と考えることができる。上秋津愛郷会によって現在も維持管理されている共有地の在り方など、「活力と潤いのある郷土」の創造を目指そうとする住民主導の里山文化には、山村の変遷を経て、なお地域が守るべき景観と価値観とは何か、という熊楠の問いが継承されている。廣瀬はその問いを重視し、自らもその問いを受け継ぎながら、住民とともに里山という空間にみかんの苗木を植える。そのことは、農的な暮らしと食環境を更新する現代の地域文化の形成に関わる挑戦となるだけでなく、この地域に現代芸術という外来の風習を持ち込みながら、それでもなお古来より続く文化的なルーツを継承し、それらを根切りにすることなく共存の道を開こうとする実践でもあるのだろう。

廣瀬智央《ビーンズコスモス》(部分)2017年


4. 拡張されたアルテ・ポーヴェラ

最後に、イタリアを拠点としてきた廣瀬の作家活動と「コモンズ農園」の関わりについて、もう一度振り返ってみたい。廣瀬は、これまでに有機物と無機物の対立を調停しながら、実に多様な造形作品を生み出してきた。彼の作品は豆やパスタなどの日常的な食品とワイヤーのような入手しやすい道具で構成されたもの、あるいはレモンのように果実をそのまま活用したもの、空や気象といった普段見過ごされがちな光景の写真イメージを使って地球上の思いもかけない土地との景色の交換を試みたものなど、実に多岐にわたっている。彼はイタリアを拠点として、とりわけ彼の地で誕生した「アルテ・ポーヴェラ(Arte povera貧しい芸術)」に大きな影響を受けてきた。

その廣瀬が近年みかんに関心を持ち、さらにその実が商品として成立する以前に、どのような文化的景観=テリトーリオの中でその育成のプロセス、つまり土や水や光の循環的な流れの中に芸術実践を位置付けられるか、という点に多大な関心を寄せてきたことは、私たちが想像する以上に、大きな意味を持つだろう。みかんの苗木を共有し、育てるという「コモンズ農園」のプロジェクトは、物質的な作品の制作や展示という限定された芸術実践を超えて、アルテ・ポーヴェラという芸術運動を拡張し、現代の日本列島にその種を移植する活動と見ることができる。

アルテ・ポーヴェラは、美術評論家のジェルマーノ・チェラントが、1960年代のイタリアを活動の場とするアーティストたちの活動をそう名付けたところから始まった[8]。そこには、産業化や資本主義化といった社会の変化がもたらす、豊かさと貧しさの奇妙な弁証法が存在している。彼らは第二次世界大戦後のイタリアが、自動車産業・機械産業という半身と農業・牧畜業の半身に引き裂かれ、あるいはデザインやアートと観光や食文化に分裂していることを熟知していた。その上で、材木や鉛・布・廃材といった日常の断片、そして石や木などの非芸術的な自然物を未加工のまま活用し、いわば非近代と近代のブリコラージュとして、作品を生み出していった。彼らは、大量生産と大量消費を生み出した近代の資本主義文明が、実は戦争や文明による荒廃の反面にあることに自覚的であったと言える。そして「貧しい芸術」というオルタナティブな運動を通して、その矛盾や荒廃の次に、どのような世界が可能なのかをさまざまな方法で模索し続けた。 中央ヨーロッパにおけるダダ・シュルレアリスムの芸術革命が都市における「解剖台の上のミシンと雨傘の出会い」によって起こったなら、第二次大戦後に勃興したイタリアの芸術運動は「大地の上の日用品と未加工品の出会い」と言えるかもしれない。戦間期のヨーロッパを賑わせたダダ・シュルレアリスムの革命や同時期のイタリアを席巻した未来派の芸術は第二次世界大戦後には東西両陣営によるグローバルな政治経済の再編を通して変質し、芸術界の関心はアメリカの絶対的な経済力を背景としたポップアートやオプアート、抽象表現主義の覇権に移行した。その際、チェラントが提起した「アルテ・ポーヴェラ(Arte povera貧しい芸術)」のテーゼは何よりも、こうしたアメリカ的な覇権を「アルテ・リッカ(Arte ricca豊かな芸術)」として遠ざけ、明確に異なる姿勢と方法を提示しようとするところに成立した、と考えることができる。

「アルテ・ポーヴェラ(Arte povera貧しい芸術)」は、確かに物質化と脱物質化といったアメリカの美術史的な言説とは異なる次元で、当時のありうべき芸術の姿を示していた。今振り返れば、それは農業と工業が激しくぶつかり合い、古今東西の文化が行き交う複雑な道のネットワークと多島海の航路がそれぞれに人間の暮らしに必要な食料と材料をもたらすイタリア半島の地理的な領土性の再発見という形でなされていった、と考えることもできよう。廣瀬は日本からイタリアに渡ってその思想と姿勢、方法論を学び、さらにその背景にあるイタリアの地域性、すなわち地表空間上の、ごく小さな地域共同体を支える贈与交換による経済や、都市と農村を媒介するダイナミックな食文化の展開、自然界と人間経済との精妙なバランスを具現化する技芸を自らの作品世界に導入していった。こうした意味で、イタリアの芸術運動を経由した彼の秋津野での新たな活動は、「拡張されたアルテ・ポーヴェラ」の名に相応しい。

こうした位置付けを行うときに忘れてはならないことは、チェラントが命名した「アルテ・ポーヴェラ」の背景に、「クチーナ・ポーヴェラ(Cucina povera 貧しい料理)」というイタリア料理の領域がすでに存在していた、という事実である。長本和子によると、イタリア料理はそもそも「クチーナ・リッカ」と呼ばれる貴族料理と、「クチーナ・ポーヴェラ」と呼ばれる庶民料理に大別される。前者は「設備の整った工房で、経済的な豊かさを利用して遠方から高価な食材を運ばせ、貴族の権力維持のために宴会を催すことを目的として技術と創造性を発揮して発展させた芸術的料理である」という。これに対して後者は「釜戸も鍋も一つしかない台所で、手近な食材を使って、家族のために作る知恵と工夫の料理」とされる[9]。前者が職業的な料理人による手の込んだ高級料理だとすれば、後者は庶民家庭の母親(マンマ)によって作られるような、安価で手に入りやすい食材を調理したものだ、ということになる。 長本によれば、クチーナポーヴェラは、テリトーリオの制約を強く受ける。すなわち山の暮らしには山の食材が、海の暮らしには海の食材が用いられ、それぞれの自然要素による限定と「貧しさ」のなかにこそ、希少な豊かさが生まれる。都市的な環境や欲望の充足に適応したクチーナ・リッカでは、古代ギリシア人やアラブ人との交易や移住によってもたらされた食材、そしてコロンブス以後の植民地主義やグローバルな交易によって海外からもたらされた食材が活かされ、イタリア料理の歴史的縦軸を形成することになる。これに対して各地の特性に応じて発達したクチーナ・ポーヴェラは、北部・中部・南部および島々の自然環境に応じて使い分けられてきた素材を活かし、イタリア料理の地理的横軸として驚くべき多様性をもたらしてきたという。19世紀にはこれらの縦軸と横軸が組み合わされ、「貧しい暮らしのなかで生まれたテリトーリオの料理」として、世界に冠たるイタリア料理の伝統と多様性が築き上げられていった。

チェラントによる「アルテ・リッカ」「アルテ・ポーヴェラ」という芸術活動の対比の背景には、おそらくこうした「貴族料理」と「庶民料理」の対比があり、その土台となるような「貴族的な豊かさ」と「庶民的な貧しさ」の慣用表現があったのだろう。チェラントは、これを逆転した形で「豊かさの中の貧しさ」「貧しさの中の豊かさ」を問うことによって、戦後のグローバル社会の中で見落とされてきた、日用品や自然物を組み合わせた素朴な技芸としての現代芸術の可能性を見出した。アルテ・ポーヴェラは、まさに第二次大戦の戦勝国として圧倒的な経済発展を遂げたアメリカ主導の現代芸術に対するイタリアのテリトーリオからの抵抗であり、その文化的覇権に対するオルタナティブであったと言える。あるいは、それは戦敗国としての混乱やトラウマを超えて、かつてファシズムという神話的な全体主義に陶酔した国民たちが戦争で多くを失い、自身の歴史を振り返った時に見出した「テリトーリオの再発見」でもあったかもしれない。

いずれにせよ、この「アルテ・ポーヴェラ」を現代日本において実践するとき、それは現代社会という極端な豊かさと貧しさの分裂の中に、果実や野菜といった作物を育て、海に生息する魚や貝を採集し、あるいは野生の獣や鳥を狩猟し、放牧した家畜を糧としてこの地球上に生き残ってきた人類の歴史を再定置することにつながる。物質化と脱物質化といった難解な議論によって形成された第二次対戦後の美術批評を尻目に、廣瀬は田辺市の市民にみかんの苗を配り、新たな世界制作への夢を語る。このユニークな活動はどこに行き着くのだろうか。 百年前も今も、私たちはみかんを食べている。そして、20世紀末から21世紀初頭にかけての社会の変化は、もはやその百年前にヨーロッパを揺るがした知覚革命と同じくらいの震度で芸術の歴史を揺るがしている。私たちの身体はいまだに野菜や果実、肉や魚を食べているというのに、私たちの暮らしは石油や核エネルギー、コンピュータやスマートフォンによって形成されている。ますます分裂していく私たちの身体と精神に健康と正気を呼び戻すために、私たちは廣瀬に習って豊かな地中海の自然の中でこそ「アルテ・ポーヴェラ」が生まれた、という矛盾に立ち返ってみる必要があるのだろう。日本列島の本州最南端に位置する紀伊半島南部という温暖な土地に「農的なアルテ・ポーヴェラ」はいかに展開するか。この問いは、21世紀における豊かさ、貧しさとは一体何を意味するのだろうか、というより大きな問いかけとなって私たちの関心を惹きつけるに違いない。


[1] ローマン・クルツナリック『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』松本紹圭訳、あすなろ書房、2021年。

[2] 木村純子、陣内秀信・編著『イタリアのテリトーリオ戦略:甦る都市と農村の交流』白桃書房、法政大学イノベーション・マネジメント研究センター叢書、2022年。

[3] 廣瀬智央「アートプロジェクト「コモンズ農園」」紀南アートウィーク実行委員会、下田学編著『RRCIPE TO SURVIVE サバイブするための思考のレシピ』Art Port 株式会社、2025年、180-185頁。

[4] 『ふるさと上秋津 古老は語る』上秋津小学校育友会、1984年。

[5] 志村真幸『未完の天才 南方熊楠』講談社現代新書、2023年、120-122頁。

[6] 南方熊楠顕彰館Webサイト「奇絶峡」解説より(2026年3月13日最終閲覧)。
https://www.minakata.org/kizetsukyo/

[7] 「田辺市の農業法人、熊楠愛好の「安藤みかん」をジュースに」(産経新聞和歌山地方版・2015年2月15日配信記事。2026年3月13日最終閲覧)https://www.sankei.com/article/20150213-TW6GVFYC2FNPFIQPBUHAB3QZBY/

[8] 池野絢子『アルテ・ポーヴェラ 戦後イタリアにおける芸術・生・政治』慶應義塾大学出版会株式会社、2016年。

[9] 長本和子「イタリア食文化の価値――郷土料理を読む方法論」木村、陣内編著前掲書(2022年)、214-215頁。

上秋津フィールドワーク


フィールドワーク 上秋津の歴史と文化

地元の上秋津で長年地域づくりに携わってこられた原和男さんをゲストに、地域の歴史、農業、水利、伝説などを巡るツアーを2025年10月18日におこないました。


原さん: ご覧の通り、もうこの上秋津は田んぼが少ないんです。かつて480戸ぐらいあって、農家が350戸ぐらい。それで水田が棚田(たなだ)も含めて、山が急傾斜やから、120ヘクタールぐらいで、三反(さんだん)百姓なかったんやな。大変、あの貧しい地域だったらしくて。
なんで生活したんなって言うたら、やっぱり石垣積みに行ったり、ほから交通の便が良くなるまで、あの熊野古道(くまのこどう)の、本宮(ほんぐう)とか、かつ遠いは十津川(とつがわ)まで荷を担(かつ)いで。
山の生活物資を運んで、帰りに椎茸(シイタケ)とか、あの木炭(もくたん)とか山のもん、みんな肩担いでやる。ほいで、龍神温泉とか、龍神までとか。そんな生活で、あの、大変厳しい生活しとったらしいですわ。

今はウメですね。もうほとんど、田んぼ作ってないやろ。今、3ヘクタールぐらいや。みんなその、地域外の人が、作っとるということで。へえー。ほらもうお米は、ほんまに安過ぎたらかなあ。絶対生活できんと思うし。

でもその前に、あの江戸末期から、ボツボツと、あのミカンが増え出して。ミカンの品質の良いのは、やっぱり傾斜地で水はけが良くて、ほから石ころ混じりがええ、ということで。どんどんとこんなに開墾していったと。
ほからね、まあサラリーマンの方に悪いんやけど、僕ら若い頃、40年、50年ぐらい前は、いくらサラリーマン退職金2000万、3000万と言うても、田んぼ1枚売ったら2000万から3000万あったんや。山の急傾斜の畑でもそれぐらい。僕、平成8年にあの辺のほんまの急傾斜の段々畑を分けてもらったのが、一反、10アール150万円で、6反買ったんで900万か。4反で600万。なんと安い買い物したな、って言うてくれて。今もうあげよか、言うても、いらんいらん! 田んぼももう全く売買できんくらい。けどまああんなにして時々、まとまって売買したら住宅地になっていくわけ。

秋津野塾のウェブサイトに原さんが書かれた「温故知新-古老は語る」を紹介します。

「温故知新-古老は語る」https://akizuno.net/adata/korou.html

・秋津野のお地蔵さん
・上秋津の”講”について
・ゆけん谷の主
・多和の岡の銅鐸
・鷹尾山と千光寺
・衣笠城物語
・奇絶峡の夢物語
・明治の大洪水
・上秋津のみかん産業




同日の夕方には「地域を識る 座談会『田辺の文化的景観』」を実施しました。イタリアでテリトーリオの研究を行い、日本各地で景観保存の実践に携わる建築家植田 曉さんが原さんの秋津野ツアーをもとに以下のように述べていました。

「『テリトーリオ』とは、歴史的に形づくられてきた社会や経済の循環のシステムに支えられた領域を指します。『文化的景観』は、自然に人が手を加えて街を作ったり畑を作ったりして形成された生活圏が、視覚的に認識できる風景のことです。この二つの言葉は、非常に似た意味合いを持っています。」

「秋津野はもともと自給自足による十ほどの集落があった土地で、それぞれの集落の境界にはお地蔵さんがあり、むかしから変わらない水路があります。」

つまり、地域のなかに原さんが長年調べてきたような歴史が積み重なり、人々の生活や農業によって生み出された景観があります。それを、ただ保護するのではなく、循環的な営みの中で維持していくことにテリトーリオとして秋津野を把握する意味があるのだと考えられます。

KAWの記事 https://kinan-art.jp/info/21239

下津きょうだいみかん山概要(和歌山県海南市下津町)


下津きょうだいみかん山は、和歌山県海南市下津町の標高約400~500メートルの山上に広がるみかん農園である。空が近く、遠く大阪湾を望む開放的な景観をもつこの農園では、京都大学農薬ゼミとともに、農薬にできる限り頼らない省農薬栽培が50年以上にわたって続けられてきた。農園の原点には、1968年に農薬中毒によって17歳の高校生が亡くなった痛ましい出来事がある。その死を契機に、農薬のあり方を根本から問い直し、安心して口にできるみかんづくりを目指す実践が始まった。現在では無農薬や有機栽培という言葉も広く知られているが、当時としては先駆的であった省農薬栽培を、土壌改良や病害虫調査を重ねながら地道に継続してきた点に、この農園の大きな意義がある。

下津きょうだいみかん山全景。奥には蔵出しみかん用の貯蔵庫

「きょうだい」という名称には、三つの意味が込められている。第一に、設立当初から長年にわたり農園を支えてきた京都大学農薬ゼミとの結びつきである。第二に、石田元教授や歴代のゼミ生、二代にわたって省農薬栽培に取り組んできた仲田家、さらに地元農家や農業関係者たちのあいだに育まれてきた、兄弟のような連帯である。第三に、そうした思想と営みを受け継いで農園を引き継いだ園主・大柿肇氏の存在、そして今後この農園のみかんを通して出会う人びともまた、その「きょうだい」の輪の一員として迎え入れたいという願いである。農園の名は、単なる呼称ではなく、実践を支えてきた協働の歴史と、これからの関係の広がりを象徴している。

農園について熱く語る大柿氏

また、この農園のもう一つの特徴は、編集者の橋本勲氏と園主の大柿氏が協働し、みかんを育てる生産の場にとどまらず、農と自然を体感する滞在の場を実現している点にある。標高500メートルの「天空の農園」には、ウッドデッキ、

1963年製のトレーラーハウス、薪風呂、オーストラリア製の水洗式バイオトイレが整備され、静かな山上の時間を過ごせるキャンプ空間がかたちづくられている。そこでは、鳥のさえずりや風の音に包まれながら、農園主から農業の現実や食の安全について話を聞き、農園で採れる季節の恵みを味わうことができる。1・2月の蕗の薹、4・5月のタケノコや山蕗、5月のみかんの花の香り、6月のびわ、9月の栗など、この農園には四季折々の気配が満ちている。一般的な段々畑とは異なり、緩やかな斜面に広がる園地を散策できることも、この場所ならではの魅力である。

バイオトイレとマキ風呂のある園地の一角
薪風呂の準備中の橋本氏

日本書紀にも記される柑橘の発祥地・下津に根ざし、伝統的な「蔵出しみかん」の文化とも隣り合いながら、下津きょうだいみかん山は、農業の歴史と未来をつなぐ実践を続けている。そこでは、みかん栽培の技術だけでなく、土地の記憶、人びとの連帯、自然とのつきあい方そのものが受け継がれ、更新されている。下津きょうだいみかん山は、省農薬栽培の思想と実践を核に据えながら、農業、滞在、対話、風景体験をひとつに結び、人と土地との関係を新たにひらく農園である。

2024年10月02日に下津きょうだいみかん山を訪問した。

みかんダイアローグvo.07

<下津きょうだいみかん山>から考えるコモンズ農園の実践

〈下津きょうだいみかん山〉の実践は、〈コモンズ農園〉を考えるうえで重要な示唆を与える。それは、この農園が単なる柑橘生産の場ではなく、テリトーリオとして歴史、倫理、協働、滞在、風景体験が重なり合う場として成立しているからである。1968年に農薬中毒で17歳の高校生が亡くなったという痛ましい出来事を契機に、この農園では農薬のあり方が根本から問い直され、京都大学農薬ゼミとともに50年以上にわたって省農薬栽培が続けられてきた。ここで重要なのは、農業が単なる収量や効率の問題としてではなく、身体の安全、労働の倫理、そして地域の未来に関わる問題として受け止められてきたことである。地道な土壌改良や病害虫調査を積み重ねながら継続されてきた実践は、農園が単なる生産の現場ではなく、過去の痛みを引き受けながら、よりよい農のかたちを模索する場であることを示している。

すり鉢状になった園地

この点は、〈コモンズ農園〉にとっても本質的である。〈コモンズ農園〉もまた、土地を所有や経済効率の対象としてのみ捉えるのではなく、さまざまな人が関わり、対話し、時間を共有しながら育てていく場として構想されている。そこで重視されるのは、完成された共同体ではなく、関わりのなかで少しずつ形を得ていく関係のあり方である。〈下津きょうだいみかん山〉における「きょうだい」という名称は、そのことを端的に示している。京都大学農薬ゼミとのつながり、歴代ゼミ生や地域の農家との兄弟のような連帯、さらにこれから出会う人びとをも仲間として迎え入れようとする姿勢は、農園が閉じた所有の場ではなく、他者に向かってひらかれた場であることを物語っている。

さらに注目すべきなのは、この農園が生産の場にとどまらず、滞在と体験の場としても構想されている点である。標高

500メートルの山上に設けられたウッドデッキ、トレーラーハウス、薪風呂、バイオトイレは、単なる観光的な付加価値ではない。来訪者が農園の時間の流れや自然環境のなかに身を置き、農業を知識としてではなく身体的に感じるための装置として機能している。鳥のさえずり、風の音、みかんの花の香り、季節ごとの草木や果実、遠くに望む大阪湾の景色は、農園を単なる景観として眺める対象ではなく、五感を通して経験する場所へと変えている。ここでは、農業は作物を育てる営みであると同時に、感覚や対話を育てる実践でもある。

このことは〈コモンズ農園〉にとっても本質的である。〈コモンズ農園〉もまた、みかん栽培を軸にしながら、農業、芸術、対話、記録を切り離さず、一つの連続した実践として編み込もうとしている。その際に大切なのは、農園を何かを展示するための舞台として扱うのではなく、人が土地の時間に触れ、植物の成長を見守り、他者と経験を共有する場として育てていくことである。すなわち〈コモンズ農園〉が目指すべきなのは、収穫物だけでなく、感覚や関係や物語が育つテリトーリオの形成である。農園における作業、休息、食、会話、観察の時間が分断されずにつながることで、そこには現代社会が失いつつあるゆっくりとした時間感覚や、他者や自然との関係を結び直す契機が生まれる。

陽が落ちて薪を燃やし始めるキャンプフィールド。

また、〈下津きょうだいみかん山〉が日本書紀にも記される柑橘発祥の地・下津に根ざし、「蔵出しみかん」という土地固有の文化の延長上にあることも見逃せない。この農園の価値は、抽象的な理念だけによって成立しているのではなく、地域の歴史や生活文化、先人たちの営みの積み重ねのなかで具体的に形づくられている。〈コモンズ農園〉においても同様に、上秋津という土地に蓄積された時間、女性三世代にわたる園地の記憶、自然農の実践、地域の暮らしの声を丁寧に受けとめることが欠かせない。土地に刻まれた記憶や実践の層を読み解くことによってはじめて、農園は単なるプロジェクトではなく、生きられた場として立ち上がる。

〈下津きょうだいみかん山〉から見えてくるのは、農園とは作物を育てる場所であると同時に、関係を耕し、感覚をひらき、土地の記憶を未来へ手渡していく場所でもあるということである。農の倫理、歴史の継承、人びとの協働、身体的な滞在体験が重なり合うことで、農園は一つの豊かな実践の場となる。〈コモンズ農園〉もまた、そのように農業と芸術、生産と経験、個人と共同性を切り分けるのではなく、それらが交差し続ける場として育まれていくべきだろう。 〈下津きょうだいみかん山〉の実践は、〈コモンズ農園〉が目指す方向を、具体的かつ静かな説得力をもって示している。

収穫に向けて育つみかん

写真:Tartaruga

大磯農園概要(神奈川県中郡大磯町)

大磯農園は、神奈川県大磯町の里山環境のなかで運営されている貸し農園であり、個人が区画を借りて野菜やハーブを育てる場であると同時に、荒廃農地の再生や里山の維持管理を目的とした共同的な実践の場でもある。単なるサービス提供型の農園ではなく、ボランティアを基盤として、参加者がともに考え、ともに手を動かしながら場を育てていく運営形態を特徴としている。

農園入り口の看板

農園は大磯駅から車で約10分の田園地帯に位置し、棚田上部から流れる湧水を活用して、米、大豆、みかんなどを栽培している。参加者は一坪程度の区画を利用し、それぞれの関心に応じて作物を育てることができるほか、農機具や種も共有されており、都市部から週末に通う参加者にとっても参加しやすい環境が整えられている。農作業については、プロの農家による助言や指導も受けられるため、初心者でも継続的に関わることが可能である。

一区画借りることができる小さな農園

また、大磯農園では個別の畑作業に加え、田植え、稲刈り、脱穀といった共同作業をはじめ、みかんや大豆の収穫、味噌づくり、日本酒づくり、BBQ、ピザづくりなど、農と食を媒介とした多様な活動が行われている。なかでも、無農薬・無化学肥料で育てた酒米「山田錦」を用いた日本酒「僕らの酒」の取り組みは、栽培から加工、共有までを一連の営みとして結びつける象徴的な実践といえる。

さらに、農園内にはテーブルや椅子、かまど、ピザ窯を備えた共有スペースが整備されており、作業後に食事をともにする時間も大切にされている。子どもたちにとっても、草むらや水路、生きものと触れ合いながら自然のなかで遊ぶことのできる場となっており、家族連れを含む多様な参加者が関われる開かれた環境が形成されている。蛍の鑑賞会など、季節ごとの自然環境を体感する機会も設けられている点は、大磯農園が単なる農作業の場にとどまらず、里山の時間や環境を身体的に経験する場であることを示している。

水田の草むしりを行う会員の皆さん

大磯農園は、都市近郊において農的暮らしの実践を共有しながら、農地の再生、里山の維持、食の循環、地域コミュニティの形成を総合的に担う実践の場として位置づけられる。

2023年07月15日に大磯農園を訪問した。

大磯農園案内図

<大磯農園>から考えるコモンズ農園の実践

大磯農園は、東京から比較的近い湘南・大磯の里山に位置し、都市生活者が週末に気軽に通いながら農に関わることのできる貸し農園である。その特徴は、単に区画を貸し出すレンタル農園にとどまらず、荒廃農地の再生、里山環境の維持、共同作業、食の共有、家族や子どもを含む交流の場づくりを一体的に行っている点にある。コモンズ農園とは理念や射程が大きく異なり、大磯農園はより生活実践や参加型コミュニティに重心を置いた場であるが、それゆえにこそ、将来のコモンズ農園の運営や実践を考えるうえで多くの示唆を与えてくれる。

第一に参考になるのは、農への参加のハードルをできるだけ低くしている点である。大磯農園では、参加者が一坪ほどの区画を借り、道具や種もある程度共有されているため、長靴と軍手があれば比較的気軽に関われる。都市部から週末だけ通う参加者が多いことも、この「入口の低さ」に支えられている。コモンズ農園は、単なる貸し農園ではなく、アートプロジェクトとしての思想性や長期的な関係形成を含んだ、より生成的で複層的な実践である。しかし、その理念が豊かであればあるほど、外部の人にとっては参加の仕方が見えにくくなる可能性もある。大磯農園の事例は、思想や理念とは別に、参加の最初の一歩をどう設計するかが極めて重要であることを示している。コモンズ農園においても、見学、収穫体験、共同作業日、食のイベント、苗木の里親制度など、関わり方に段階を設けることで、多様な人が無理なく入ってこられる構造を考える必要があるだろう。

谷間に広がる農園で、少し離れた場所にみかん畑、棚田式の水田、貸し出し畑という区画構成になっている。

第二に、大磯農園は農作業そのものだけでなく、食べること、集まること、自然のなかで過ごすことを含めて農園の魅力を構成している。田植えや稲刈りだけでなく、味噌づくり、酒づくり、BBQ、ピザづくり、蛍鑑賞会など、農の営みを季節の楽しみや身体的経験へと開いている。この点は、コモンズ農園にとっても重要である。コモンズ農園は、みかん栽培を核にしながら、対話、滞在、共同作業、記録、学びが交差する場として育てられていくべきものであり、農作業だけに限定されない広がりをもつ。その際、大磯農園のように「農を媒介に人が自然と交わる時間」を丁寧に設計することは、コミュニティ形成において大きな意味をもつ。コモンズ農園においても、収穫や手入れだけでなく、食事会、柑橘加工、香りや風景をめぐるワークショップ、子ども向けの自然観察などを織り込むことで、場の厚みが増していくはずである。

第三に、大磯農園は荒廃農地の再生を活動の根底に据えており、その再生が参加者の体験や喜びと結びついている点が注目される。つまり、社会的に必要な課題解決と、個人にとっての楽しさや充足感が切り離されていない。これはコモンズ農園にとっても大きな示唆である。コモンズ農園が目指すのは、単なる農地利用やイベント開催ではなく、土地に新たな関係性を編み直し、地域の時間や記憶を次世代へ開いていくことである。その実践は、ともすると理念先行で抽象化しやすいが、大磯農園のように「楽しい」「おいしい」「また来たい」という実感と結びつくことで、持続性が高まる。場を維持するには、社会的意義だけでなく、参加者にとっての身体的な魅力と実感が不可欠なのである。

第四に、大磯農園の実践は、運営面や収益面を考えるうえでも参考になる。会費制や体験参加の仕組みを持ち、継続的な参加を促しながら、農園の維持に必要な費用や労力を分散している点は、将来的なコモンズ農園の運営を考える際に重要である。コモンズ農園は営利事業として単純化できないが、長期的に続いていくためには、理念と現実的な運営の両立が求められる。たとえば、会員制度、サポーター制度、イベント参加費、加工品や記録冊子の頒布、滞在型プログラムなど、複数の支え方を組み合わせることが考えられる。大磯農園はその意味で、思想を先鋭化する場というより、継続するための基礎体力をどうつくるかという実践的な知恵を示している。

風情ある道具小屋

もっとも、コモンズ農園は大磯農園と同じ方向を目指す必要はない。両者の違いはむしろ重要である。大磯農園が、参加しやすく、暮らしに近く、共同体的な農の楽しさを共有する場だとすれば、コモンズ農園は、農を通して人・土地・時間・記憶・表現の関係を問い直す、より開かれた生成の場である。したがって、コモンズ農園は大磯農園の形式を模倣するのではなく、その運営の柔軟さ、参加導線の設計、共同体形成の実践、農地再生と楽しさの接続、持続可能な仕組みづくりといった点を参照しつつ、自らの独自性を深めていくことが重要である。

大磯農園は、都市近郊における「農のある暮らし」を具体的に実践しながら、人が自然と関わり直す場を育てている。 その姿は、コモンズ農園に対して、思想を現実の場として持続させるための方法、すなわち、どのように人を迎え入れ、どう関係を育み、どう場を継続していくかという実践的課題をあらためて照らし出している。コモンズ農園が今後、アートプロジェクトとしての独自性を保ちながら、より多くの人に開かれた持続的な場となっていくために、大磯農園は有効な参照点のひとつである。

写真:Tartaruga、湘南人ブログより借用

地域を識る — 座談会『田辺の文化的景観』

日時:2025年10月18日(土)19:00–20:30
場所:トーワ荘(和歌山県田辺市高雄1丁目2−14)


座談会「田辺の文化的景観」要約

本座談会は、2025年6月のオンライントーク〈みかんダイアローグ vol.8〉で、建築家・植田曉氏から紹介されたイタリアの「テリトーリオ」という概念と、その具体的実践を受けて開催された。その問題意識を引き継ぎながら、テリトーリオの視点をコモンズ農園の理念に重ね合わせ、田辺という地域を軸にしたツアーと座談会を通して、その在り方とプロセスを共有した。

本企画では、アートプロジェクト〈コモンズ農園〉を、「テリトーリオ」と「文化的景観」という視点から捉え直し、田辺・上秋津の歴史、風景の変化、そこに生きる人々の営みを通して、その可能性を考えた。昼には上秋津を歩くツアー〈地域を識る—ツアー「田辺のテリトーリオを巡る」〉が行われ、夜の座談会では、植田曉、廣瀬智央、下田学に加え、地域で暮らす岩佐郁、問山美海も参加し、地域の風景と生活の関係が多角的に論じられた。

建築家 植田暁氏

その視点から見ると、上秋津はすでに豊かな素材を備えた土地である。ツアーを通じて植田が注目したのは、集落を支えてきた水路網、江戸末期以降に広がったみかん栽培、かつての桑畑、斜面の石垣、段畑、そして十の集落と新しい集落の境界を示す地蔵などである。1970年代と現在の航空写真を比べると、新たな住宅地の出現など風景の変化も明らかだが、それは衰退の証ではなく、変化をどう受け止め、地域の力へ還元するかという問いを投げかけるものである。植田は、上秋津にも最小限の自給自足単位としてのテリトーリオがあり、さらにそれが入れ子状に広い地域や伝承へつながっていると指摘した。

続いて、岩佐と問山が、田辺に外から戻ってきた者、あるいは外から移り住んだ者としての実感を語った。問山は、未舗装の道に広がる梅畑や秋津野ガルテンの風景に農村らしさを見いだし、地域には趣味のグループやガルテンを軸とした緩やかなつながりがあると述べた。岩佐は、川沿いでカワセミに出会う散歩道や、近所同士の野菜のやり取りを挙げ、日常のなかに人と自然の近さがあると語った。また、草刈り、野焼き、溝掃除といった共同作業が、かつての厳しい共同体の名残をとどめながら、いまも景観を支えていることが確認された。一方で、みかん畑が梅へ転換されていることや、護岸工事、宅地造成など、風景が静かに変わりつつある現実も共有された。

問山氏
岩佐氏

廣瀬は、〈コモンズ農園〉を農作物の生産だけを目的とした農園ではなく、異なる立場の人々が出会い、関係を育てる「フォーム(受け皿)」だと説明した。出発点は、みかんを使った作品展示の構想だったが、単に果実を買って使い捨てるのではなく、自分たちでみかんを育て、その長い時間そのものを作品化したいと考えたことから、苗木を育て、人が集まり、対話し、変化を共有するプロジェクトへと変わっていった。土地探しに3年を要し、ようやく岩佐の家の農地を借りて植樹の段階に入ったが、その準備期間自体がすでに関係を耕す時間だったという。廣瀬はこれを「時間を耕す」と呼び、成果や効率を急ぐ現代社会に対して、アートはむしろ時間をかけることで見えてくる価値を開くものだと述べた。

また、コモンズ農園で育てるみかんについても、効率や大量生産を目指すのではなく、この土地の無農薬の履歴や、女性たちが代々守ってきた農地の物語、多品種栽培の可能性などを尊重したいと語った。重要なのは、最初から目標を固定しすぎないこと、状況や変化に応じて柔軟に進むこと、そしてその過程を面白がることである。むしろ多くの人を集めることよりも、少人数でも深く体験できる「謎の場所」として存在するほうが、この農園にはふさわしいという見通しも示された。

プレゼン参考資料 <ppt図版10「継承している人々」>

質疑では、地域住民と新住民、外部の来訪者とのあいだで、風景の「見え方」が異なることが大きな課題として提起された。農道や水路、地蔵などは、地域の人にとっては管理と労力の積み重ねによって成り立つ構造物だが、新たに来た人には自然物のように見えてしまう。そのズレをどう埋めるかに対し、下田は、同じ「みかん」や「上秋津」という言葉でも立場によって意味が異なることを可視化し、別のかたちに翻訳するのがアートの役割ではないかと応じた。植田もまた、地域資源を未来へつなぐには、行政・住民・NPO・教育が対話を重ねながら、子どもたちに愛着と記憶を残していく道筋を作ることが重要だと述べた。

全体を通じて本座談会は、コモンズ農園を単独の農園やアート作品としてではなく、営農、対話、地域の再認識、将来的な事業や教育への広がりを重ね合わせる「小さなテリトーリオ」として位置づけた。田辺の文化的景観を読み解きながら、その未来をつくるための試行として、コモンズ農園が象徴的な役割を担いうることが、参加者のあいだで共有された。

みかんダイアローグvol.8 地域を識る — 座談会『田辺の文化的景観』 (KINAN ART WEEK)

*この座談会は公益財団法人小笠原敏晶記念財団の助成により行われました。

写真:下田学

小田原文化財団江之浦測候所/ 農業法人株式会社植物と人間(神奈川県小田原市江之浦)


小田原文化財団は、現代美術作家・杉本博司氏によって設立された文化財団であり、芸術・建築・自然・歴史を横断しながら、長い時間軸のなかで文化を生成し続けるための基盤づくりを目的としている。その中心的な活動拠点が、神奈川県小田原市江之浦に位置する江之浦測候所である。


江之浦測候所は、美術館や展示施設という枠を超え、相模湾を望む段丘地形と農地、建築、石造構築物、遊歩道を含む敷地全体を用いて、古代から現代へと連なる時間意識や自然観を体験的に問い直す文化空間として構想されている。ここでは鑑賞者は作品を「見る者」ではなく、風景を歩き、季節や光の移ろいを身体で受け取る存在として位置づけられる。


この空間を支える重要な要素が、周辺農地を管理・運営する農業法人、株式会社「植物と人間」である。同社は、耕作放棄地や柑橘畑を引き継ぎ、農薬不使用・非生産主義的な農業を通じて、農地を単なる背景や資源ではなく、生きた時間を刻む景観として維持・更新している。農業は管理や制御ではなく、自然の変化に応答し続ける実践として位置づけられ、江之浦測候所の建築思想と不可分に結びついている。


三者は、理念を担う財団、空間を体験として提示する江之浦測候所、生業として土地と関わり続ける農業という役割を分担しながら、芸術と自然、人間の営みを切り離さない文化的実験場を形成している。江之浦測候所は完成された施設ではなく、時間とともに生成し続ける〈場〉として、現代における新たな文化的トポスのあり方を提示している。

農業法人 株式会社「植物と人間」の責任者である、磯﨑洋才氏にヒアリングを実施した。

江之浦測候所入り口にある「甘柑山」の看板


磯﨑洋才氏へヒアリング要約
1.関与の経緯と立場
磯﨑洋才氏は建築家として江之浦測候所の設計・現場監理に初期から関わり、2018年に農業法人「株式会社 植物と人間」に入社した。江之浦測候所の開設(2017年)に伴い、周辺のみかん畑や耕作放棄地が景観上重要であることから、2011年に農業法人が設立され、測候所と不可分のプロジェクトとして農地の取得と管理が進められてきた。

2.農業法人「植物と人間」の基本コンセプト
法人名の通り、「植物と人間の共生」が根本理念であり、生産性や産業性を第一目的とする農業ではない。みかん畑は「甘橘山」として、アート・建築と連続する景観の一部と位置づけられ、自然のあり方を尊重した非人間中心的な農業を目指している。農薬不使用栽培は当初からの合意事項であり、反対意見はなかった。

絶景の江之浦測候所内の斜面に広がるみかんの木

3.土地・樹木の継承と再編
取得した農地は複数の元所有者から引き継がれ、状態も様々だった。老木や耕作放棄地が多く、農薬不使用・無化学肥料への転換により、従来の樹木の8~9割が枯死し、現在の柑橘の多くは新たに定植したものである。現在は200~300本弱の柑橘樹があり、毎年20~30本ずつ段階的に植え替え・追加を行っている。

4.栽培方法と品種選定
栽培品種は30種以上に及び、品種選定は磯﨑氏がディレクションを担う。基準は「景観」よりも「土地に合うかどうか」であり、水はけ、斜面の向き、標高、微地形といった条件と、かつての農家の知恵を継承する形で配置されている。高所から低所へと収穫時期が連なるよう、品種の熟期も考慮されている。

新たしく植えられたみかんの木

5.無農薬農業の困難と実践
農薬不使用での栽培は労力が大きく、雑草管理や病害対応には剪定や手作業で対処している。農業に関してはスタッフの多くが未経験者であり、特定の指導者に依存せず、地域の農家に助言を求めつつ、実践を通じた試行錯誤を重ねている。景観を重視し、樹形の美しさや見苦しさを基準に剪定を判断する点も特徴である。

6.建築・景観との連動
農地管理は江之浦測候所の来館動線、開館時間、イベントと密接に関係している。草刈りなどの作業は休館日(火・水)や早朝に集中させ、来館者体験を優先して調整されている。石垣や遊歩道、階段などの整備は杉本博司氏の意図をもとに磯﨑氏が図面化し、職人と協働しながら、その場で判断し変化し続ける形で進められている。

斜面下に広がる江之浦

7.農業を通じた意識の変化
農業に携わることで、磯﨑氏自身の食への意識や自然観は大きく変化した。農薬散布の現場を目の当たりにした経験から、流通や「きれいな農産物」への違和感を抱くようになり、見た目よりも安全性と循環を重視する価値観へと転換した。農薬不使用であるがゆえに、果実や皮の活用幅が広がり、加工品やカフェでの活用、陳皮、将来的な蒸留なども模索されている。

8.自然との対峙と受容
台風による倒木や獣害(イノシシなど)は避けられない問題であり、「どうにもならないことを受け入れる」姿勢が自然との共生の核心として語られる。一方で、問題は地域との新たな関係を生み、狩猟者との出会いなど、人的ネットワークの拡張にもつながっている。

9.運営体制と経営
農作業は主に火・水曜日に行われ、アルバイト3名と弊社スタッフを含む約5名体制で運営されている。株式会社である以上、黒字経営は必須であり、現在は小規模ながら黒字化を達成している。規模拡大には慎重で、収益性・人員・管理能力のバランスを重視している。

10.今後の展望
将来的には、加工品開発や周辺農家の柑橘を高く買い取り活用する仕組みを構想し、地域農業の持続可能性に寄与する可能性を探っている。また、2028年にオープン予定の宿泊施設の計画も進行中で、農業・建築・文化活動がより重層的に結びつく展開が予定されている。

100メートルギャラリー《夏至光遥拝》
東西に軸を置き、海へとせり出すコールテン鋼の《冬至光遥拝隧道》の入り口


〈植物と人間〉から考えるコモンズ農園

杉本博司氏の江之浦測候所は、単なる美術館でも庭園でもなく、時間を空間として体験させる装置である。古代から現代へと連なる天文学的時間、石や光が蓄えてきた地質学的時間、人間の身体がその場に立つことで感受する瞬間の時間。それらを一つの構造体として編み上げることで、杉本氏は「時間を測る」場を創出した。その思想的基盤の上に位置づけられる農業法人〈植物と人間〉の実践は、江之浦測候所の世界観を地面のレベルで具体化する営みだと言える。

〈植物と人間〉が示す重要な示唆は、農業を「管理」ではなく「応答」の行為として捉えている点にある。農薬不使用・非効率・手探りという選択は、理念的なオーガニック主義ではなく、自然の変化や偶然に身を開き続ける態度の表明である。台風や獣害、病といった出来事を排除すべき障害とみなさず、次の判断へとつなぐ契機として受け入れる姿勢は、コモンズ農園の完成を目指さないプロセスとしてのアートと深く共鳴する。ここでは農業そのものが、時間の中で生成し続ける作品となっている。

また、景観を視覚的な美へと還元せず、地形、水、石垣、職人の身体、来訪者の動線といった多層的要素の交差として捉える点も重要である。複数の時間と主体が折り重なって形成される景観は、共有されるコモンズとしての空間であり、そこでは植物の配置や収穫のリズムが土地の構造と結びつきながら、ひとつの空間的記述を形づくる。さらに、株式会社として黒字化を前提に運営される点は、理想と生業の緊張関係を正面から引き受ける実践として、コモンズの持続可能性を具体的に示している。

この実践から、コモンズ農園が学び得る未来像は明確である。第一に、農を思想の付帯物ではなく、プロジェクトの中核に据えること。農業が展示やイベントを支える背景ではなく、場の哲学を体現する身体的行為として機能するとき、農園は単なる生産地ではなく、時間と倫理を耕す装置となる。第二に、経済と理想を切り離さず、資源循環や加工、販売を含めた実践の中で自律性を確保すること。理念だけでは持続しないという現実を受け入れつつ、その内部で新しい価値を生成する構造を模索する必要がある。第三に、地域との摩擦や対話を避けず、関係性の更新そのものをプロジェクトの一部として引き受けることである。

しかし同時に、コモンズ農園の独自性は江之浦とは異なる方向にある。江之浦測候所が杉本氏の強固な美学的ビジョンを中心に据え、そこから農を編み込んでいくのに対し、コモンズ農園はより未分化で、複数の主体が交差する「フォーム」として構想されている。完成された構造体の中に農が位置づくのではなく、農そのものが対話の起点となり、異なる立場や思考を持つ人々が出入りしながら関係を編み直していく。その開放性と流動性にこそ特質がある。

さらに、コモンズ農園は十年後の「みかんの展覧会」という長期的時間軸を掲げている点でも独自である。それは単なる収穫の成果発表ではなく、植物の成長、人間関係の変化、地域の記憶の蓄積を含んだ総体的な時間の提示となるはずだ。江之浦浦測候所が宇宙的時間を石と建築によって定着させるのに対し、コモンズ農園はより可変的で、生きられた時間を媒介に共同体を編成し直す試みである。 〈植物と人間〉が示す「応答としての農」は、コモンズ農園にとって大きな参照軸となる。しかしコモンズ農園の未来像は、それを踏まえつつ、より関係論的で、未完成で、参加者とともに生成し続ける場として展開していく点にある。農業であり、アートであり、対話のプラットフォームでもあるその在り方は、管理でも支配でもない「共に生きる形式」を模索する実験として、独自の地平を切り開いていくと考える。

*本リサーチは、公益財団法人小笠原俊晶記念財団の助成により実施されました。

写真:Tartaruga

エコネットみなまた(熊本県水俣市)


エコネットみなまたは、水俣病の経験と教訓を基盤に、環境と共生する地域社会の実現を目指して活動する団体である。水俣の自然再生や環境保全、資源循環の取り組みを進めるとともに、地元で生まれた安全・安心な産品の企画開発や販売を通じて、持続可能な地域経済の構築に貢献している。環境配慮型の商品やリユース・リサイクルの実践を広めることで、日常生活の中から環境問題を考える機会を創出している点が特徴である。また、水俣病の歴史と向き合いながら、その教訓を国内外へ発信し、環境教育や視察の受け入れなども行っている。被害の記憶を風化させることなく、地域の誇りへと転換し、未来志向のまちづくりへとつなげることを理念としている。自然・人・経済の循環を重視し、小さな実践の積み重ねから社会全体の価値観の転換を促す存在である。

さらにエコネットみなまたは、2023年10月より社会福祉法人くまもと障害者労働センターの事業として新たな歩みを開始した。この体制のもと、障がいのある人もない人も共に働くことのできる場づくりを進めている。障がいのある人々を福祉の対象としてではなく、地域社会を支える「働き手」として積極的に受け入れている点は、同団体の重要な特徴である。環境活動と福祉の実践を分けて考えるのではなく、地域の中で共に働き、共に生活を支える関係を築くことを通じて、持続可能な社会の具体的な姿を示している。

2025年10月25日にエコネットみなまたを訪問した。

〈エコネットみなまた〉から考えるコモンズ農園の実践

エコネットみなまたの活動は、水俣病という深い痛みの経験を出発点にしながら、その記憶を単なる被害の歴史としてではなく、未来へ向けた倫理と実践へと転換しようとする点に特徴がある。環境負荷の少ない商品開発や資源循環の仕組みづくり、地域資源の再評価と発信は、経済活動と環境思想を分断せず、生活の中に組み込んでいく試みである。この姿勢は、田辺市で〈コモンズ農園〉を進め、10年後の「みかんの展覧会」を目指しながら「農園という名のフォーム」を育てている〈コモンズ農園〉の実践にとって、多くの示唆を与える。

第一に学ぶべきは、「記憶を共有財へと変換する方法」である。エコネットみなまたは、水俣病の教訓を地域固有の悲劇として閉じ込めるのではなく、環境問題全体への問いとして社会に開いてきた。そこでは過去の出来事が倫理的資源として現在に働きかける。コモンズ農園においても、土地の履歴や地域の時間を掘り起こし、それを単なる背景としてではなく、参加者が思考を深めるための基盤へと転換していくことが求められる。農園は農作物の生産地であると同時に、記憶や関係性が耕される場であるという自覚が、より強く意識されうる。

第二に、環境と経済の接続の仕方である。エコネットみなまたは理念だけでなく、商品流通や販売という具体的な回路を持ち、思想を日常生活のレベルにまで降ろしている。思想が生活の実践に結びつくことで、持続可能性は単なる抽象概念ではなく、具体的な営みとして社会の中に根付いていく。コモンズ農園においても、みかんの栽培や販売、収穫体験、対話やワークショップなどの活動は、単なるイベントではなく思想の実装として位置づけられる。農園で生まれる小さな循環が、地域社会の価値観の更新へとつながる回路をどのように設計していくのかが重要な課題となる。

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さらに重要なのは、エコネットみなまたが環境活動と同時に、社会的包摂の実践を担っている点である。

2023年10月より同団体は社会福祉法人くまもと障害者労働センターの事業として新たな歩みを開始し、障がいのある人もない人も共に働くことのできる場を地域の中に築いてきた。ここでは障がいのある人々が福祉の対象としてではなく、地域社会を支える働き手として受け入れられている。この姿勢は、コモンズという概念を具体的な社会関係として体現する重要な実践である。コモンズとは単に共有される資源を意味するのではなく、異なる立場や条件をもつ人々が共に関わり、働き、関係を築くことで維持される社会的な場でもあるからである。

この視点は、コモンズ農園の実践を考える上でも大きな示唆を与える。農園という場は、農業の生産現場であると同時に、人々が関わり合いながら関係性を編み直す社会的空間でもある。そこでは、専門家や農家、地域住民、子ども、訪問者など、多様な立場の人々が関わる可能性が開かれている。エコネットみなまたの実践が示すように、異なる身体や条件をもつ人々が共に働くことのできる環境を整えることは、コモンズの具体的な実践の一つの形である。農園の作業や収穫の時間、植物と向き合う身体的な経験は、人と人の違いを超えて共有されうる営みでもある。

第三に、被害と責任の問題を曖昧にしない姿勢である。水俣の経験は、自然と人間の関係が経済合理性の名のもとに破壊されうることを示した。コモンズ農園が自然を扱う以上、アートが農や土地に関わることの危うさもまた自覚されなければならない。自然を美的対象として消費するのではなく、他者としての自然とどのように関わるか。その倫理的態度は、エコネットみなまたの実践から多くを学ぶことができる。

さらに、エコネットみなまたの活動は、環境を「問題」としてではなく「関係」として捉え直す視点を示している。環境とは外在的な対象ではなく、生活や身体の延長にあるものであるという理解である。この視点は、私が関心を寄せてきたピュシス的自然観や身体論とも響き合う。農園は単なる場所ではなく、異なる立場や感覚が交差する場として再定義される。みかんの木を育てる時間、香りや触覚を通じて立ち上がる感覚の世界は、人と自然の境界を揺さぶる経験となる。

コモンズ農園にとって重要なのは、エコネットみなまたのように、理念と実践、記憶と未来、環境と経済、そして人と人との関係を分断しない構えを持つことである。農園という「フォーム」は未完成であるがゆえに、関わる人々の思考と行為によって更新され続ける。その過程そのものが、地域社会における新しい公共性の実験となる。エコネットみなまたの歩みは、痛みの歴史を抱えながらも前に進む姿勢を示している。コモンズ農園もまた、みかんを育てるという時間の芸術を通じて、人と自然、人と人とが共に関わるコモンズの場を静かに育てていく実践となりうるだろう。

*本リサーチは、公益財団法人小笠原俊晶記念財団の助成により実施されました。

写真:Tartaruga