小田原文化財団江之浦測候所/ 農業法人株式会社植物と人間(神奈川県小田原市江之浦)


小田原文化財団は、現代美術作家・杉本博司氏によって設立された文化財団であり、芸術・建築・自然・歴史を横断しながら、長い時間軸のなかで文化を生成し続けるための基盤づくりを目的としている。その中心的な活動拠点が、神奈川県小田原市江之浦に位置する江之浦測候所である。


江之浦測候所は、美術館や展示施設という枠を超え、相模湾を望む段丘地形と農地、建築、石造構築物、遊歩道を含む敷地全体を用いて、古代から現代へと連なる時間意識や自然観を体験的に問い直す文化空間として構想されている。ここでは鑑賞者は作品を「見る者」ではなく、風景を歩き、季節や光の移ろいを身体で受け取る存在として位置づけられる。


この空間を支える重要な要素が、周辺農地を管理・運営する農業法人、株式会社「植物と人間」である。同社は、耕作放棄地や柑橘畑を引き継ぎ、農薬不使用・非生産主義的な農業を通じて、農地を単なる背景や資源ではなく、生きた時間を刻む景観として維持・更新している。農業は管理や制御ではなく、自然の変化に応答し続ける実践として位置づけられ、江之浦測候所の建築思想と不可分に結びついている。


三者は、理念を担う財団、空間を体験として提示する江之浦測候所、生業として土地と関わり続ける農業という役割を分担しながら、芸術と自然、人間の営みを切り離さない文化的実験場を形成している。江之浦測候所は完成された施設ではなく、時間とともに生成し続ける〈場〉として、現代における新たな文化的トポスのあり方を提示している。

農業法人 株式会社「植物と人間」の責任者である、磯﨑洋才氏にヒアリングを実施した。

江之浦測候所入り口にある「甘柑山」の看板


磯﨑洋才氏へヒアリング要約
1.関与の経緯と立場
磯﨑洋才氏は建築家として江之浦測候所の設計・現場監理に初期から関わり、2018年に農業法人「株式会社 植物と人間」に入社した。江之浦測候所の開設(2017年)に伴い、周辺のみかん畑や耕作放棄地が景観上重要であることから、2011年に農業法人が設立され、測候所と不可分のプロジェクトとして農地の取得と管理が進められてきた。

2.農業法人「植物と人間」の基本コンセプト
法人名の通り、「植物と人間の共生」が根本理念であり、生産性や産業性を第一目的とする農業ではない。みかん畑は「甘橘山」として、アート・建築と連続する景観の一部と位置づけられ、自然のあり方を尊重した非人間中心的な農業を目指している。農薬不使用栽培は当初からの合意事項であり、反対意見はなかった。

絶景の江之浦測候所内の斜面に広がるみかんの木

3.土地・樹木の継承と再編
取得した農地は複数の元所有者から引き継がれ、状態も様々だった。老木や耕作放棄地が多く、農薬不使用・無化学肥料への転換により、従来の樹木の8~9割が枯死し、現在の柑橘の多くは新たに定植したものである。現在は200~300本弱の柑橘樹があり、毎年20~30本ずつ段階的に植え替え・追加を行っている。

4.栽培方法と品種選定
栽培品種は30種以上に及び、品種選定は磯﨑氏がディレクションを担う。基準は「景観」よりも「土地に合うかどうか」であり、水はけ、斜面の向き、標高、微地形といった条件と、かつての農家の知恵を継承する形で配置されている。高所から低所へと収穫時期が連なるよう、品種の熟期も考慮されている。

新たしく植えられたみかんの木

5.無農薬農業の困難と実践
農薬不使用での栽培は労力が大きく、雑草管理や病害対応には剪定や手作業で対処している。農業に関してはスタッフの多くが未経験者であり、特定の指導者に依存せず、地域の農家に助言を求めつつ、実践を通じた試行錯誤を重ねている。景観を重視し、樹形の美しさや見苦しさを基準に剪定を判断する点も特徴である。

6.建築・景観との連動
農地管理は江之浦測候所の来館動線、開館時間、イベントと密接に関係している。草刈りなどの作業は休館日(火・水)や早朝に集中させ、来館者体験を優先して調整されている。石垣や遊歩道、階段などの整備は杉本博司氏の意図をもとに磯﨑氏が図面化し、職人と協働しながら、その場で判断し変化し続ける形で進められている。

斜面下に広がる江之浦

7.農業を通じた意識の変化
農業に携わることで、磯﨑氏自身の食への意識や自然観は大きく変化した。農薬散布の現場を目の当たりにした経験から、流通や「きれいな農産物」への違和感を抱くようになり、見た目よりも安全性と循環を重視する価値観へと転換した。農薬不使用であるがゆえに、果実や皮の活用幅が広がり、加工品やカフェでの活用、陳皮、将来的な蒸留なども模索されている。

8.自然との対峙と受容
台風による倒木や獣害(イノシシなど)は避けられない問題であり、「どうにもならないことを受け入れる」姿勢が自然との共生の核心として語られる。一方で、問題は地域との新たな関係を生み、狩猟者との出会いなど、人的ネットワークの拡張にもつながっている。

9.運営体制と経営
農作業は主に火・水曜日に行われ、アルバイト3名と弊社スタッフを含む約5名体制で運営されている。株式会社である以上、黒字経営は必須であり、現在は小規模ながら黒字化を達成している。規模拡大には慎重で、収益性・人員・管理能力のバランスを重視している。

10.今後の展望
将来的には、加工品開発や周辺農家の柑橘を高く買い取り活用する仕組みを構想し、地域農業の持続可能性に寄与する可能性を探っている。また、2028年にオープン予定の宿泊施設の計画も進行中で、農業・建築・文化活動がより重層的に結びつく展開が予定されている。

100メートルギャラリー《夏至光遥拝》
東西に軸を置き、海へとせり出すコールテン鋼の《冬至光遥拝隧道》の入り口


〈植物と人間〉から考えるコモンズ農園

杉本博司氏の江之浦測候所は、単なる美術館でも庭園でもなく、時間を空間として体験させる装置である。古代から現代へと連なる天文学的時間、石や光が蓄えてきた地質学的時間、人間の身体がその場に立つことで感受する瞬間の時間。それらを一つの構造体として編み上げることで、杉本氏は「時間を測る」場を創出した。その思想的基盤の上に位置づけられる農業法人〈植物と人間〉の実践は、江之浦測候所の世界観を地面のレベルで具体化する営みだと言える。

〈植物と人間〉が示す重要な示唆は、農業を「管理」ではなく「応答」の行為として捉えている点にある。農薬不使用・非効率・手探りという選択は、理念的なオーガニック主義ではなく、自然の変化や偶然に身を開き続ける態度の表明である。台風や獣害、病といった出来事を排除すべき障害とみなさず、次の判断へとつなぐ契機として受け入れる姿勢は、コモンズ農園の完成を目指さないプロセスとしてのアートと深く共鳴する。ここでは農業そのものが、時間の中で生成し続ける作品となっている。

また、景観を視覚的な美へと還元せず、地形、水、石垣、職人の身体、来訪者の動線といった多層的要素の交差として捉える点も重要である。複数の時間と主体が折り重なって形成される景観は、共有されるコモンズとしての空間であり、そこでは植物の配置や収穫のリズムが土地の構造と結びつきながら、ひとつの空間的記述を形づくる。さらに、株式会社として黒字化を前提に運営される点は、理想と生業の緊張関係を正面から引き受ける実践として、コモンズの持続可能性を具体的に示している。

この実践から、コモンズ農園が学び得る未来像は明確である。第一に、農を思想の付帯物ではなく、プロジェクトの中核に据えること。農業が展示やイベントを支える背景ではなく、場の哲学を体現する身体的行為として機能するとき、農園は単なる生産地ではなく、時間と倫理を耕す装置となる。第二に、経済と理想を切り離さず、資源循環や加工、販売を含めた実践の中で自律性を確保すること。理念だけでは持続しないという現実を受け入れつつ、その内部で新しい価値を生成する構造を模索する必要がある。第三に、地域との摩擦や対話を避けず、関係性の更新そのものをプロジェクトの一部として引き受けることである。

しかし同時に、コモンズ農園の独自性は江之浦とは異なる方向にある。江之浦測候所が杉本氏の強固な美学的ビジョンを中心に据え、そこから農を編み込んでいくのに対し、コモンズ農園はより未分化で、複数の主体が交差する「フォーム」として構想されている。完成された構造体の中に農が位置づくのではなく、農そのものが対話の起点となり、異なる立場や思考を持つ人々が出入りしながら関係を編み直していく。その開放性と流動性にこそ特質がある。

さらに、コモンズ農園は十年後の「みかんの展覧会」という長期的時間軸を掲げている点でも独自である。それは単なる収穫の成果発表ではなく、植物の成長、人間関係の変化、地域の記憶の蓄積を含んだ総体的な時間の提示となるはずだ。江之浦浦測候所が宇宙的時間を石と建築によって定着させるのに対し、コモンズ農園はより可変的で、生きられた時間を媒介に共同体を編成し直す試みである。 〈植物と人間〉が示す「応答としての農」は、コモンズ農園にとって大きな参照軸となる。しかしコモンズ農園の未来像は、それを踏まえつつ、より関係論的で、未完成で、参加者とともに生成し続ける場として展開していく点にある。農業であり、アートであり、対話のプラットフォームでもあるその在り方は、管理でも支配でもない「共に生きる形式」を模索する実験として、独自の地平を切り開いていくと考える。

*本リサーチは、公益財団法人小笠原俊晶記念財団の助成により実施されました。

写真:Tartaruga