農地について語る中田康子さんとご家族の会話
2025年1月18日(土)13:00-15:30
場所:中田家
話に参加していた人:
いくさん(岩佐郁)
ちえこさん (尾崎千枝子・中田秀雄の妹)
康子さん(いくさんの祖母)
浩子さん(いくさんの母、和歌山県外在住)
ふーちゃん(猫・グレー)
川崎貴光さん
紀南アートウィーク(以下 KAW)
農園を担ってきた人の名前:
行武明子さん(いくさんの叔母、和歌山県外在住)
中田みねさん(郁さんの祖母、秀雄の母)
*みねさんは吉右衛門さんの娘ではなく、吉右衛門さんの妹の一人娘
本家
吉右衛門さん(拓生さん&龍生さんの父、漢文・学校の先生、農地の開墾者)
畔田拓生さん(長男) 畔田龍生(次男・みかんに注力)
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農地の開墾
「すごい色やな」
「この地図書いたんは川崎さんが来てくれたとき」
「何が植わってるって話だよな。面白がりなんで、あれやこれやと植える。新品種とかあったら植えたいって言って植える。だけど結局、だんだん年取って、手もまわらなくなる。剪定もできなくなる。で、そういうものほど早く枯れていく。今残っているのは夏みかんとか八朔とか原種に近い品種。金柑の一部分とか」

「ここは新家なんですよ。だから本家の畔田さん、吉左衛門さんていう学校の先生をしたり、漢文の先生したり、趣味人の先生の妹の一人娘だったみねさん(康子さんの姑)が男の方と結婚して今の家を開いたと。だから100年ぐらいしか経ってないっていうのはそこなんですよ。」[1926年・大正15年/昭和元年ごろ開墾、畑を譲り受ける]
「だから畑の方はみかん畑を譲ってもらったんですよ。開墾したのは、畔田家。この龍ちゃんって言われている方々、次男さんの方かな、山の奥とか、はい。稲成(町)の奥とか、いろんなところに開墾してはみかんを植えて、みかん畑を作ったって聞いてます。だからこの辺の紀南のみかん産業ってそんなに古くはないって。元々、安藤みかんとかありましたけど、基幹産業とかじゃなかった、って聞いてます。だから開拓をすごくしたのは畔田さんたち。ばあちゃん達は、なんていうんですかね、小作をしたり、金柑ちぎりに行ったり、そんなんしてたんやけれども、もう農地開放もあったし、おまはんらも作るかということで譲ってもらった。」
「秀雄さん(康子の夫)がみねさんの息子さんってことですね。教師をしてたんで、基本は三ちゃん農業で、父が教師をしてる間、女性たちが田畑を耕してた」
「(週末の手伝いも)してない。もうずっと管理職だったし、学校のクラブとか、週末も兼業農家はしていなかった。」
「退職したら楽しみにさせてあげたいっていうんで、婆さんたちが守るつもりだった。ところが退職して2年で死んでしまって。退職してすぐは接木をしたり、そういう理系の先生だったんで。そういうのが好き。自然環境とか、社会問題とかものすごく好きな人だった」 「康子さんと義理の妹が(畑を)守らないといけないの!自分たちが苦労して譲ってもらって守ってきた畑だからやりなさい、って。ずっと働いてきた。」
家族と農業の関わり
KAW「ちなみに畑は面白い植え方をされてますよね?慣行農業らしくないというか、、」
浩子「面白そうなものがあれば「植えたい!」って母(康子さん)と叔母(義理の妹・尾崎さん)はそういうところは気が合ったみたいで。その、商売をいっこも考えられなかった。本当に趣味の園芸をしてた。(農協に)出してもコンテナ一杯、5円とか10円の時代に「農薬嫌い」なんて言ったら商売できませんもんね。(市場には)自転車につんで行ってましたよ。父が車いらんしって言って。ずっとそういうエコロジーなことを言って。自動車免許もなかった。父が車いらんしって言って。自然環境によくないって。」
KAW「エコ的な理由で車の免許をとられなかったんですね」
浩子「昔は(家の)裏の道がまだ畑につながっていたから、子供がお昼のお弁当なんかは持って行かされた(笑)で、手ぶらで(畑から)帰ってきたら怒られるから、薪を持って帰ってくるみたいな。父(秀雄さん)がこういうの好きだったんですよ。(康子さんは)よー苦労して頑張ったと思います。」
KAW「康子さんの好きなみかんは何ですか」
康子:「そりゃ、温州や」
浩子:「そうやったん?!それは知らんかった。三宝柑と違うん?」
郁:「(温州みかんが好きなのは)剥きやすいから?」
康子:「うん」
康子:「あそこの下の道怖いんや」
郁:「龍神山への入り口で鳥居のある道?」
康子:「そうそう」
郁:「あそこ一回落ちたよな?」
川崎:「途中で?」
郁「そうそう、だから崖側に落ちてたら死んでたんやけど、そのまま道なりに一回転したから何とか生き延びた」 康子「下(道)から行ったら怖いよ。けど(ブドウ園近くの)あの道は一応、市の道になってるけど、自分の畑の中通られたらやっぱりええ気せんからな」
康子「みな、やわらかくなったよ」
浩子「何が?人が?環境が?」
康子「人よ」
浩子「畑の周りの人が優しくなってきたようです。女なのでなめられるんですよ。」
郁「ほんまにそう。女世帯でこんなんやってるの珍しいもん」
(休憩:和三盆とお茶をいただく。以降は、茶飲み話のように浩子さんを中心に康子さんやいくさんの言葉が重なるように交わされるので、話者の名前は省略。一部終戦時の話題だけ語り手が分かるように明記。)
「本当に急にやっぱり高度成長期に皆さん開墾したんで、この辺も本当に何もなくて、ただの雑木だったんですよ。だからここら辺に畔田さんたちの佐向谷の谷川があって、ずっともう何もない本当に雑木林だったんですよね。それをもう本当に刻むようにミカン畑にして。だから私らが子供の頃、50年前とかでしたら、もう本当にせせらぎとリスが走ってたりするようなところだったんですけれども、今はもう囲いをして」
「ここ(家)の裏も里山だったんですよ。フランコ作ったり。みかん開拓して、それがもうこの暑さで、また駄目になっていく。次は今バナナとか」
KAW「そうですね。今、みかん農家さん達もアボガドとか植えはじめて」
「アボカドは難しんだよ〜。カーメン君が難しいって言ってるんだよ」
「Youtubeのカーメン君ですか?」
「そう、そう」
「たかじの山は猿はきぃへんの?」
「猪はくる」
「アライグマもくる。ハクビシンも。」
「ここ最近アライグマ多いんやで。」
「鹿とか猪ってなると、境界の話になるよな。防風林、畑の境界に植えてあったろ?」
「康子さんが防風林のマキの木を植えたよな。やっぱり風、海風がどんどんはいってくる。でも、その塩水がいいっていう話もあって、海の見える丘って、この辺では南斜面の海の照り返しとか。ただ、風が強いんで防風林が増える」
KAW「康子さんはいつから畑されたんですか。何歳ぐらいから畑にいきましたか?」
「しばらく図書館にいってるって言って。引揚げてきて女学生さんで、その頃に田辺高校の、昔の田辺高校ですけどね、浜の方の。図書館司書においでって先生に呼ばれて。そして見合いがあって秀雄さんと一緒になった。」
「(今は)人生いっぱいこんなに選択肢があるんだったら、(おそらく母は)絶対他の仕事してた。」
「農村部はなかなかね」
「私たちが学校とか行ってるときは、ずっと畑に行ってました。朝、誰よりも早く起きて、お弁当とかも作って。オーバーワークしてて。40歳ぐらいのときかな。それまでは姑のみねさんが主で畑をしてた」
「みねさん60(歳)半ばまで何とか田んぼしてたよな」
「みんなに助けられてん」
「みんなって誰よ?」
「町の先生方。生徒さんにも助けられたよ。お父ちゃん(秀雄さん)に可愛がってもらったからな」
KAW「助けてくれた人に、できたみかんとかを渡したりしたんですか?」
「年末とか学期末っていうと、あの人にお世話になったって言って配って周りやった」
「お父ちゃんもあっちこっちの学校で用事あったんや。あげたさか。」
「無農薬というのも、おばあちゃん達からしたら誇りだった」
KAW「日本にはいくつの時に引き揚げましたか」
康子「女学校一年生の時。13歳ころ。1932年生まれ」
「平沢(大韓民国京畿道南部、Pyeongtaek)で買うとった家と屋根が飛んでん。これはおかしいなと思たら、終戦だってん。平沢にも先生おってな、お腹空いたら先生におごってもろてん」
「むこうでは楽しくオオカミ犬を飼ったりしてた。朝鮮半島の狼と自分家の犬が交配して」
「ペ・ヨンジュンの『冬のソナタ』なんか見て、昔の風景に似てるんかな、景色がやっぱり。木が一つも生えていない。中国とかは全部刈ってしまうんみたいで、それが嫌だったらしくて。(康子さんの)父親が木を(住居の)周りには植えてな。木を植えて植林せなあかんとかいろいろ向こうでしてたんで、言うほど、手のひらを返したように(敗戦のときに)いじめられたりしなかったと言うてました。」
康子「イワン農場って」
浩子「イワンの馬鹿みたいなそういう理想主義なお父さんに育った娘(康子)が、なんか今のようなエコロジーの塊みたいな旦那(秀雄)と一緒になったというこのようになったとさ。」
康子「この間、ひょっと夜、朝鮮の歌思い出してよ。(実際に歌ってくれる)」
康子「アリアリラン〜 ♪、スリラン〜 ♪っていうやつ。今は汽車通りやんねと。 平沢から」
浩子「(韓国に一緒に)いくか?って言ったけどいかん。」
KAW「こっち(日本)に戻ってこられたときは日本語は喋れたんですか?」
浩子「親が日本人なので、向こうでも日本語で喋ってたみたいで。多分(韓国語)を喋ってないと思うんよね」
KAW「でも(韓国語の)歌を覚えてるんですね」
浩子「まあ、働いてくれた人はむこう(韓国)の人やけれども」
浩子「学校もそういう政策だったから。日本語がメインだったはずやから」
康子「いろんなこと忘れてしもた」
康子「ま、おまえ(浩子)には苦労させたな」
浩子「あー!六十年後のねぎらい(笑)」
康子「なっとうするんですか?」
KAW「更地にはしません。」
「廣瀬さんがイタリアにいると聞いてて、誰が管理していくのかな。誰ができるって思っていたんですよ。畑の上に家を建ててくれていいよ(笑)叔母はずっと言ってました。『私があそこに住んでたら一日中やってるのに』って。お前らが車で連れてってくれんから家建てるって。」
「(まわりは)誰がご飯作るんよ?って。でもそれぐらいの熱意でやってきた人やから。」
「初めてシンクイムシがナッパに。もう苗がダメなんですよ。もう種から。いつもだったら11月とかに蒔いたら勝手に余裕で育つのが、もう暑いから虫がいつまでもわいてくる。キャベツとか白菜とか。もうナッパができない。こんなに虫だらけになったのはこれまでで初めてで。これ毎年だったらやってけないよねって。キャベツ高いし。だから、みかん育てるの難しいと思いません?」
KAW「やっぱり(これからは)バナナですかね(笑)」
「突然の霜で一発でダメになるらしいし」
「本当にもうボロボロになった畑にイノシシは攻めてくるし、鹿はすごいし、外来種のひっつき虫とかがものすごい生えてるのを、袋に詰めて放り出してこのみかんの塊どないすんのって売れないやんってようなものを、もう近所にもらってとか言って配って歩くみたいな。何十年かやってきて、もうこれ以上頑張れないと思って。うん。うん。うん。思ったんよ。だからもう母もやめとけばよかったなというぐらい。うん。さいご娘(郁さん)があんなに面白がってくるとは思ってなかった」
「もうあと何でもやってなみたいな。近所の、その親戚のおばちゃんとかには迷惑かけられへんから。うまい付き合いしていきたいなと。(畔田の)おばちゃんも娘(郁)のことをかわいがってくれるんで、そう、いくちゃん。」
「私ら年子ではないんですが子供ちっちゃいときは、もう家の周りでおってご飯作りなさいというかんじだったらしいんですよね。うんうん。その辺りまではそんなに畑に行ったりはしていなかったはずなんですよ。私らが離れるというか小学校とか保育所に行った頃には、もうずっと叔母が畑とか田んぼとかも朝早く起きて、お弁当も作ってみたいなものをすごいオーバーワークしてて。」
「康子さんがそうですね。ちょっと引き継いだっていう、なに30代ぐらいとかですかね。私が小学校の 5年生か6年生山下先生のときにみねさんが亡くなった。ばあちゃん死んだのが、小学校のときだったんや。」
「小学校の高学年なんてことは康子さん何歳ぐらい。 」
「10歳、いくつや、私が小学校、覚えてない。」
「はい。そうです、そうですよね。それまではメインじゃなくって、指揮を振るのは叔母だったんですねだから、おばあちゃんたちの娘で片腕として、わざわざ結婚してもここに住めと言われて、田んぼを開けてすぐ家建てて、本当にあの畑を守るために、彼女はここで暮らし続けた人やから、母(康子)はいつも、はい、はいってついていく人だったんですよね」
KAW「お米も作られたんですか。」
「あそことあそこ3ヶ所あったんで3ヶ所も3ヶ所あったやろ。」
「いつまでやった?ミカンの畑よりも先にやめた。」
「うちはな。うん、もちろん田んぼやめた、いつごろよ。」
「20年以上前は、うん。私まだ物心ついた頃やりやったろう。ギリギリやった。だから蛍見に行ったやん。佐向谷川(さこだに)にな。あの頃はやってた。だから康子さんは30歳ぐらい、今や十年前ぐらいやな。だから90歳のばばあが60歳半ばまで田んぼやってたよ」
「ガスはみねさんが怖いと言って薪で火をおこしてたよ」
「無農薬を決めたのは秀雄さん。みねさんの時は慣行農業で、でもやっぱりみんなお肌が弱かったし、うん。なるだけやめたいなっていうので下草刈ってって感じでした。そこで秀雄さん、秀雄さんが農薬あんまり使いたくないっていうことで」
「白砂糖がどうとかね、白いもんは食べんなって言われました。時代だったんだと思うんよ。アトピーとかもそうやけども、本当に同級生たちも、どれだけアトピーとか多くて」
「康子さん的には、これ、どうだったんよんや。康子さんはつらかったよな。農薬よ。タンクつんで。」
KAW「畑してて大変だったことは何ですか?」
「道が狭いから車でいけんね。だから手で。」
「人力やな。「おこ」って言うんですか。天秤棒みたいなやつで。籠、両方につけて降ろしてきたりとか、子供にも手ぶらで帰らせてくれんとか」
「市場へも(農作物)持ってってんよ」
KAW「市場に行く時、車がなかったら大変だったんと違います?」
「五十(歳)でとってん」 「おんとし50にして免許センターに通いました」
「ちょうど父が定年で、定年後、父を畑に連れて行ってあげないといけないという気持ちで。歩いて行ってた時代もあるけど、バイクも滑るから危ないし、父をのせなきゃいけないと言う気持ちで取りに行ったんですね」
「市場には何でも売りに行ったって言いやったよな。」
「あるもの全然食べさせてもらえない。全部あるもの何でも売る」
「むきらっきょとか(他の人と)競ってた」
「庭のザクロも持ってたん?」
「これで家を維持してきた。」
「文字通り何でも売ってきた」
「正月みかんも結構売れた」
「でも天皇崩御の時には捨ててんな。全然売れなかった。その年はめでたいことはしないと言う理由で」
「それが(正月みかん)が一番の稼ぎだったな。それと金柑。丸金柑はもっと後やで。長金柑、子供の時に採るの辛かった。金柑が主力だった。」
「丸金柑が高く売れたっていうてたの覚えてるわ。それでも1キロ500円、私が覚えてるくらいやから、20年か30年前の話やけど。
「何でも持っててん」
「でも、それはよっぽどやで」
「市場に持っててもクズみたいな感じやから、親戚の人とかにお裾分けして、そのお返しで食い繋いでた時もあったわな。そういう繋がりだったんよな」
「こんな乙女が農業してるとはって、女学生の時の友達とかが言ってましたよ。文化学園で洋裁学校の司会をしてたりとか、図書館司書だったりとか、周りから見たらなんか文化人って思われてたのに、なんかすごい活き活きと(農業を)やっている。気楽に。あの康ちゃんがねって。戦争を超えてきたから逞しいんだよね」
「おばあちゃん死んだ後、(畑が)きたないって言われたらあかんと思って」
「肥を(畑へ)もって上がってんで。人糞。長いこと水洗じゃなかったからね。本当にでも山の上まで持って行った。」
「田んぼとか、肥というのは知ってましたけどね」
「どういう風に(人糞を)まいてたんですか?」
「種まく時に」
「(畑に)置いといて、やっぱり肥は昔、野壺ってあったでしょ。そこにいれて発酵しないと、じかにやるとよくないでしょ。下肥っていう物にして」
「高校でたら、(田辺に)帰って来れないんですよ。特に女子。男の人達は後取りやからとか、やっぱり田辺好きやとか言って帰ってくるんやけど、女性達は田辺に帰ってきても仕事ないやんとか。男性は田辺好きが多いけど、女性は「そんな男尊女卑なところ嫌」結構おっさん達にいじめられているから。バリバリの農家さん怖い!みたいな。」
「自分の知っている、10代の頃、手伝っているときの畑は草1本はえていなくて。みかんの木のまわりにシダとか敷いてあって、その下に肥料、牛糞じゃなくて魚の粉みたいなのとかあんなんを入れて、家からいつも増施(ぞうし)と言ってたけども、野菜かすとか、そういうものを持って上がって埋めておく。そして、あいてる所は全部耕して、葉っぱものから何から野菜いや、こんにゃくとか何でも植えてあって、そこで(野菜などを)取りながら、みかんの世話をする。防風林は低かったから、畑から海が光っていて船がみえる。みかんの唄(みかんの花咲く丘)ってあるよね。ほんとうにあの通りの風景。」
「(紀南アートウィークに)まぁ、私らようせんから任せておいたらいいよ」
