秋津野のテリトーリオがもたらす拡張されたアルテ・ポーヴェラの可能性
石倉敏明
1.みかんの領分
ここに一つのみかんがある。それは手のひらに収まるほどの、小さな食べ物に過ぎない。私たちは指で皮を剥いて、そのまま口に放り込むことができる。丁寧に薄皮を剥き、絞ってジュースにすることもできる。外皮を乾燥させて陳皮酒などの材料にしても、砂糖漬けにして活用しても良い。皮に含まれる油分を利用すれば掃除にも使えるし、精油や蒸留水に加工することもできるだろう。素材としてのみかんは、実にさまざまな用途に開かれている。
しかし、みかんを作ることは、それを使うことほど容易ではない。自然と人間、時間と労働、空間と環境、地域と経済といったさまざまな関係性を調節し、さらに病気や災害、害虫など干渉する阻害要因を取り除き、やっと植えられた一つの苗木を育成できるようになる。そのために土と水と光は、根本的な条件となるだろう。一般的に、一本の苗木からみかんが実るまでに5年以上の時間がかかり、それから恒常的な収穫が見込めるようになるまでにはさらに数年、収穫が安定するには10年ほどの時を要するという。そのためみかん農家は目先の利益だけではなく、長期的な時間軸での収穫を計画し、苗木からみかんを育て、その品種が適切な状態に育つように配慮する。 果樹栽培に特有のこうした時間軸は、少なくとも数十年単位で家族や地域、さらに自然環境や気象条件のことを考えて行動するという、長期的な関心(長期思考)を育む。そのことは、わずか数秒から数日といった短期的な関心(短期思考)によって駆動される現代の人の経済行動にとって、根本的な批評性を持つ可能性がある。長期思考は、目先の利益にとらわれるあまりあまりにも混乱し、かえって多くの問題を引き起こしている現状を変える可能性を持つという。思想家のローマン・クルツナリックはそうした長期思考による未来に向けた主体のあり方を「グッド・アンセスター(良い祖先)」と名付けた[1]。長期思考は、現代を生きる私たちに、自己の生まれる以前の世代と今後生まれてくる世代を架橋する意識を芽生えさせ、私たちがどうすれば未来の世代にとって良い祖先になれるのか、という責任を与えてくれるのだ。
一つのみかんは、一本の木に、その木は一つの農園に、その農園は一つの地域に、その地域は一つの社会に、その社会は地球という惑星に開かれている。その主根は世界と存在の秘密に関わり、複雑に絡まり合う側根は土と菌根の多様性に結びつく。根から吸い上げられる水分は、地域の水系や流域を通して風土そのものへ、気象や土壌の条件へと生命を導く。その幹は細胞壁という精妙な機構を通じてこの地球上に根を張りつつ、天空へ伸びることを可能にする。その葉は太陽の光と雨の恵みを受け取り、これをあらゆる生命活動へと変換する。一つみかんを作ることは、こうして一つの生きた景観と結びついて生命環境を形成し、そこに生きる人々の暮らしと経済を造形する。
ヨーロッパ屈指の農業国として有名なイタリアでは、こうした人々の暮らしを支える生命環境を「テリトーリオ」と呼びならわしてきた。無理やり日本語に翻訳するなら、それは「風土の領分」ということになるだろうか。テリトーリオの思想は、地球全体を均質な資源に満たされた球体と考えるグローバリズムとも、国家単位で経済社会を維持しようとするナショナリズムとも異なる。それは、ある地域の現実について、都市と農村を分割することなく、惑星的な全体性とその土地に固有の環境特性を生かし、地域の風土が持つ特性を潜在的なコモンズ(共有財)として理解し直し、コモニング(共有化)することで維持される。イタリアでは、例えば食材の生産地である農村での農業体験、食を通した観光や環境教育を通した都市との交流を深めることで、各地の風土に根差したテリトーリオが活性化しつつあるという[2]。 同じことが、現在「コモンズ農園」が広がりつつある日本の和歌山県でも言えるだろう。そこでは土地に根付いたみかん農園の活動を新たなアートプロジェクト(紀南アートウィーク)や環境特性に応じてデザインされた観光体験と接続することで、地域のポテンシャルを再評価する新たな動きが芽生えつつある。ある地域でのみかんの育成は、風土に関わる生命環境への意識を育み、さらにそこから独自の経済と価値観を涵養する「バイオ・リージョナリズム(生態地域主義)」へと私たちを導くのだ。それは、人間が恣意的に分割した土地管理ではなく、分水嶺や水系、地層、植生、生態系といった地域特性によって支えられる思想である。その土地に固有な「バイオリージョン(生態地域)」の特性を意識し、固定化と流動化、光合成と物質代謝、生成することと腐敗することのあいだでバランスを取って生きるイタリアのテリトーリオ思想は、温暖な気候を活かして多種多様なみかんを育成しようとする紀南の風土産業と響き合う。 みかんを作ることは、必ずしも、絶対的な条件のもとでの収穫の最大化や経済的な収益といった指標の獲得を意味しない。それは、むしろある地域の気象や地理的条件、生物進化の歴史を背景に育まれたテリトーリオの歴史に、果樹農業という具体的な人間の営みを位置付けることだ。みかんという果実は、それだけでは日常的に消費されるありふれた食べ物に過ぎない。しかし、一つのみかんを通してテリトーリオを味わう時、私たちは食文化というヒトという種の中心性に安住する代わりに、不確定性の中で植物の育成を試みる古くからの農の営みを再発見し、互いに絡まり合い続ける複数種の生命と種間の応答の煌めきに気付くことになる。
2. 秋津野のテリトーリオ
イタリアのミラノに居住するアーティスト廣瀬智央は、和歌山県田辺市の人びとと共にみかんの育成と農園の共有化を目指す「コモンズ農園」の活動を行ってきた。これは、それぞれの参加者が知恵や経験を持ち寄って運営するみかん農園の構想で、2022年には、秋津野(上秋津)地域の農家が共同出資した「秋津野ゆい」の倉庫を会場として展示を行い、また希望者に蜜柑の苗木を育ててもらう《みかんの苗木の旅》というプロジェクトもスタートした。この活動体は、地域や農業とアート、哲学、人類学、植物学、デザインなどの接点を探る「みかんコレクティブ」を母体として、今では秋津野を活動拠点とする広域的なネットワークとして成長しつつあるアートプロジェクトだ[3]。
秋津野地域の地域史は、少なくとも弥生時代まで遡ることができる。古くから恵まれた水資源を活かした暮らしが生まれ、平安時代には藤原氏の荘園として栄えた。その後も棚田による水田耕作が行われてきたが、明治以後にはみかんをはじめとする柑橘類を主要な生産物として栄え、ウメなどの生産も盛んである。 秋津野の地名は古事記・日本書紀などの古伝に「速秋津比古神・速秋津比売神」「速秋津日命」とあることから、おそらくは神話上の「秋津島(大和・日本の別称)」の語源となった収穫の時期に飛来するトンボ(秋津)ではなく、水源地から様々な水流として海に至る河川水系の信仰によるものだろう。秋津野には右会津川、佐向谷川、久保田川、稲谷川という四つの川が流れている。主流は虎ヶ峯を水源とする右会津川であるが、これらの流域を一つの文化的景観としてまとめているのは、高所から低所へと流れる豊富な水の存在である。川上神社の祭神である瀬織津姫は上流の水源と関わりのある神格だが、別の祭神である速秋津比古神・速秋津比売神は大祓で川に流された穢れを呑み込む神格であるとされる。その穢れは近代的な観念での汚穢ではなく過剰エネルギーと考えれば、これらの神は流域から流れる水を受け止め、活用する上での重要な標識とみなすことができる。これらの神々は明らかに、水の循環とその活用を司っている。
秋津野のテリトーリオは、こうして広域的な分水嶺を基礎としつつ、それぞれの地域の土壌を生かした農業を最大の特徴としている。田辺地域のみかん栽培は1600年代に遡り、柑子から始まり九年母小みかん、金柑が試作されてきたという[1]。上秋津の地域ではこうした初期の試みを受け継ぎながら、とりわけ農薬や肥料に依存しすぎることのない、環境に配慮したみかん栽培が営まれてきた。また、単一品種の大規模栽培を前提とするものカルチャー経済に偏ることなく、土壌の水捌けや土の特性に合わせた、多品種のみかん栽培を行ってきた地域でもある。廣瀬がこの土地に関心を持った契機は、その環境特性や多様性の尊重という条件と切り離すことはできない。
廣瀬が「コモンズ農園」を展開するこの地域では、市民が自ら土地の歴史を探り、古い言い伝えや土地の利用法といった地域文化を学ぶ取り組みが継続されている。こうしたコミュニティーの特性は、それが大都市圏の市民活動のように人間と人間のケアのあり方に閉じられることなく、農業や林業をはじめとする生業の継承、地域の自然環境に対する深い関心と観察、すでにこの世界にはいない古い世代が残した物語や伝承といった、人間ならざるものへの強い好奇心に駆動されている。それは天水田と芝の狩り場、植林地帯の管理を季節に即して行ってきた熊野の山の環境と民俗を基層としつつ、果樹という商品作物の栽培によって新たな生活様式を築き上げてきたこの地域の温故知新の気質に根差した地域文化を最大限に生かそうとするプロジェクトである。
廣瀬智央《熊野ラディーチ_05》2022年
3. 熊野のコモンズと南方熊楠
野本寛一『熊野山海民俗考』によると、紀伊半島は巨石や奇岩に溢れ、湯と川、山と海のダイナミックな対比をもとに、散在する高地集落と海岸の漁村を結ぶ自律的なネットワークを持った地域風土を形成してきたという。さらにこの地域には、各地から死者の魂が集まるという霊山信仰と、山々をめぐることによって象徴的な蘇りを果たすという修験道の再生思想が伝承された。この土地には、特異な自然地形を聖地とするアニミズム的な精霊信仰を基層として、記紀と深く関連する日本神話の神々の伝承が息づき、さらには熊野本宮を中心とするアジア起源の仏教思想が重層する。熊野が死者の供養や霊的な浄化、巡礼による精神修養の目的地とされたのは、このように自然景観と人間の歴史が重層するコスモロジーによって、この土地が日本列島全体にとって特別な聖地であるという意味づけを与えられたからにほかならない。
とはいえ、江戸幕府が全国統治のために整備した稲作中心の年貢経済が、明治以後の貨幣中心の経済に移行する際には、熊野にも大きな精神的危機が生じたようである。年貢米の徴収によって米を中心とするコスモロジーによって全国を統治していた近世の統治体系が崩れた後、熊野では江戸後期から広まっていた柑橘類や梅の栽培が急速に広まっていった。水田から果樹園へと様変わりした里山の風景は、社会のあり方をも激変させる。稲作を前提として作られてきた日本の暦は、稲の収穫を感謝するイベントとして秋に大きな祭りを行うことが織り込まれている。ところが、梅の収穫は6月、柑橘類の収穫は12月から3月にかけて行われるため、神道の前提となる季節の運行とは異なる植物と人間の関係が形成され、これが氏子を中心とする神社神道の維持を難しくした可能性がある。志村真幸によれば、明治期の熊野地域で極端に進行した神社合祀運動とそれに伴う神木などの植物伐採は、こうした生業や経済構造の変化と深く関係しているという[5]。
ところがそうした環境変化や神社合祀の名を借りた聖地存亡の危機に対して異を唱え、現代の環境保護運動の先駆けとなるような聖地擁護の論陣を張った人物がいる。田辺出身の南方熊楠は、こうして激変する明治期の熊野にあって、風土に根差した神社と鎮守の森を守ることを訴えた博物学者・思想家として広く知られている。彼は、早くから国外に出てアメリカやイギリスなどで研究を続け、日本に戻ってからは故郷の田辺を拠点としつつ、動植物や菌類、粘菌などの生態や分類に関する画期的な仕事を成し遂げた。その熊楠が重視したのが、熊野の山と森、海辺の環境、島といった地域のありふれた自然環境であった。彼は神社合祀の掛け声のもとに故郷熊野をはじめとする地域の森が伐採される事態に対して、民俗学者の柳田國男とも連帯しつつ、そのローカルな運動を全国的な自然環境の保全意識へと拡張するような呼びかけを行った。彼は、熊野で起こっていた急進的な神社合祀運動が、全国的な規模で起こっていた同様の危機や自然環境そのものに対する開発至上主義の拡大、そして神仏分離に伴って行われた仏像や仏教寺院の破壊といった原理主義的な精神運動と同根であることを見抜いていたのである。 田辺市の他の地域もそうであるように、上秋津地域も熊楠の愛好した植物や菌類、粘菌等の採集地であった。神社合祀反対と植物保護を訴え、東京帝国大学教授松村任三にあてた2通(明治44年8月21日、同29日付。「南方二書」と呼ばれる)手紙には会津川上流の奇絶峡を、地質学・考古学的に重要な岩のある絶景の地であり、珍しい植物が生息することを説いている[6]。また、彼は上秋津村の村長に川中石の保存について提言するなど、奇絶峡の保護を強く訴えていた。
興味深いことに、熊楠は江戸時代に田辺の安藤治兵衛邸に自生していた「安藤みかん」を愛好し、同市中屋敷町の熊楠邸の庭にも植えていた。熊楠は、晩柑の一種であるこのみかんの風味を気に入って、とりわけ果汁を搾って飲むことを好んだと伝えられる。熊楠はこの安藤みかんを地域の特産品として育てることを本気で考え、旧上秋津村(現・同市上秋津)の村長に苗木50本を贈っている。この安藤みかんを復活させようという農業法人の取り組みも始まった[7]。明治期の社会的変遷や近代的な科学的知識の導入を経て、風土産業としてのみかんの育成に希望を見出し、それでもなお土地の保全や風土に根差したコスモロジーを擁護しようとする熊楠の姿勢は、それから百年後の21世紀を生きる私たちにとっても大いに参考になるだろう。
熊楠にとって、みかんのような果樹栽培が盛んになることは決して否定すべきことではなかった。そして、それは即座に過去のコスモロジーを否定し、神社合祀や神木伐採を推進することを意味するのでもなかった。重要なことは、果樹栽培を通じて土地利用のあり方が根本的に変化する中で、それでもなお、風土に根付いた信仰や生活文化を守るために何ができるのか、ということだ。そこで熊楠は、日本の社会秩序を支える稲や米について言及する代わりに、神社という空間が持つ潜在的な生物多様性や里山という空間の持つ文化的価値を強調することで、神社合祀に異を唱えた。そして、国や自治体のような上からの力によって一元的に精神のあり方や経済、社会制度などを改変するのではなく、自然と民衆の力によって共有されるべき叡智の範囲を決め、人間以外の種の多様性を確保しそれらと共存する「コモニングの方法」を示したのである。 廣瀬と田辺市の市民が一緒に立ち上げた「コモンズ農園」は、明らかに以上のような熊楠の精神を受け継ぎ、「コモニングの方法」を複合的な芸術実践の手法によって更新しようとするものだ、と考えることができる。上秋津愛郷会によって現在も維持管理されている共有地の在り方など、「活力と潤いのある郷土」の創造を目指そうとする住民主導の里山文化には、山村の変遷を経て、なお地域が守るべき景観と価値観とは何か、という熊楠の問いが継承されている。廣瀬はその問いを重視し、自らもその問いを受け継ぎながら、住民とともに里山という空間にみかんの苗木を植える。そのことは、農的な暮らしと食環境を更新する現代の地域文化の形成に関わる挑戦となるだけでなく、この地域に現代芸術という外来の風習を持ち込みながら、それでもなお古来より続く文化的なルーツを継承し、それらを根切りにすることなく共存の道を開こうとする実践でもあるのだろう。
廣瀬智央《ビーンズコスモス》(部分)2017年
4. 拡張されたアルテ・ポーヴェラ
最後に、イタリアを拠点としてきた廣瀬の作家活動と「コモンズ農園」の関わりについて、もう一度振り返ってみたい。廣瀬は、これまでに有機物と無機物の対立を調停しながら、実に多様な造形作品を生み出してきた。彼の作品は豆やパスタなどの日常的な食品とワイヤーのような入手しやすい道具で構成されたもの、あるいはレモンのように果実をそのまま活用したもの、空や気象といった普段見過ごされがちな光景の写真イメージを使って地球上の思いもかけない土地との景色の交換を試みたものなど、実に多岐にわたっている。彼はイタリアを拠点として、とりわけ彼の地で誕生した「アルテ・ポーヴェラ(Arte povera貧しい芸術)」に大きな影響を受けてきた。
その廣瀬が近年みかんに関心を持ち、さらにその実が商品として成立する以前に、どのような文化的景観=テリトーリオの中でその育成のプロセス、つまり土や水や光の循環的な流れの中に芸術実践を位置付けられるか、という点に多大な関心を寄せてきたことは、私たちが想像する以上に、大きな意味を持つだろう。みかんの苗木を共有し、育てるという「コモンズ農園」のプロジェクトは、物質的な作品の制作や展示という限定された芸術実践を超えて、アルテ・ポーヴェラという芸術運動を拡張し、現代の日本列島にその種を移植する活動と見ることができる。
アルテ・ポーヴェラは、美術評論家のジェルマーノ・チェラントが、1960年代のイタリアを活動の場とするアーティストたちの活動をそう名付けたところから始まった[8]。そこには、産業化や資本主義化といった社会の変化がもたらす、豊かさと貧しさの奇妙な弁証法が存在している。彼らは第二次世界大戦後のイタリアが、自動車産業・機械産業という半身と農業・牧畜業の半身に引き裂かれ、あるいはデザインやアートと観光や食文化に分裂していることを熟知していた。その上で、材木や鉛・布・廃材といった日常の断片、そして石や木などの非芸術的な自然物を未加工のまま活用し、いわば非近代と近代のブリコラージュとして、作品を生み出していった。彼らは、大量生産と大量消費を生み出した近代の資本主義文明が、実は戦争や文明による荒廃の反面にあることに自覚的であったと言える。そして「貧しい芸術」というオルタナティブな運動を通して、その矛盾や荒廃の次に、どのような世界が可能なのかをさまざまな方法で模索し続けた。 中央ヨーロッパにおけるダダ・シュルレアリスムの芸術革命が都市における「解剖台の上のミシンと雨傘の出会い」によって起こったなら、第二次大戦後に勃興したイタリアの芸術運動は「大地の上の日用品と未加工品の出会い」と言えるかもしれない。戦間期のヨーロッパを賑わせたダダ・シュルレアリスムの革命や同時期のイタリアを席巻した未来派の芸術は第二次世界大戦後には東西両陣営によるグローバルな政治経済の再編を通して変質し、芸術界の関心はアメリカの絶対的な経済力を背景としたポップアートやオプアート、抽象表現主義の覇権に移行した。その際、チェラントが提起した「アルテ・ポーヴェラ(Arte povera貧しい芸術)」のテーゼは何よりも、こうしたアメリカ的な覇権を「アルテ・リッカ(Arte ricca豊かな芸術)」として遠ざけ、明確に異なる姿勢と方法を提示しようとするところに成立した、と考えることができる。
「アルテ・ポーヴェラ(Arte povera貧しい芸術)」は、確かに物質化と脱物質化といったアメリカの美術史的な言説とは異なる次元で、当時のありうべき芸術の姿を示していた。今振り返れば、それは農業と工業が激しくぶつかり合い、古今東西の文化が行き交う複雑な道のネットワークと多島海の航路がそれぞれに人間の暮らしに必要な食料と材料をもたらすイタリア半島の地理的な領土性の再発見という形でなされていった、と考えることもできよう。廣瀬は日本からイタリアに渡ってその思想と姿勢、方法論を学び、さらにその背景にあるイタリアの地域性、すなわち地表空間上の、ごく小さな地域共同体を支える贈与交換による経済や、都市と農村を媒介するダイナミックな食文化の展開、自然界と人間経済との精妙なバランスを具現化する技芸を自らの作品世界に導入していった。こうした意味で、イタリアの芸術運動を経由した彼の秋津野での新たな活動は、「拡張されたアルテ・ポーヴェラ」の名に相応しい。
こうした位置付けを行うときに忘れてはならないことは、チェラントが命名した「アルテ・ポーヴェラ」の背景に、「クチーナ・ポーヴェラ(Cucina povera 貧しい料理)」というイタリア料理の領域がすでに存在していた、という事実である。長本和子によると、イタリア料理はそもそも「クチーナ・リッカ」と呼ばれる貴族料理と、「クチーナ・ポーヴェラ」と呼ばれる庶民料理に大別される。前者は「設備の整った工房で、経済的な豊かさを利用して遠方から高価な食材を運ばせ、貴族の権力維持のために宴会を催すことを目的として技術と創造性を発揮して発展させた芸術的料理である」という。これに対して後者は「釜戸も鍋も一つしかない台所で、手近な食材を使って、家族のために作る知恵と工夫の料理」とされる[9]。前者が職業的な料理人による手の込んだ高級料理だとすれば、後者は庶民家庭の母親(マンマ)によって作られるような、安価で手に入りやすい食材を調理したものだ、ということになる。 長本によれば、クチーナポーヴェラは、テリトーリオの制約を強く受ける。すなわち山の暮らしには山の食材が、海の暮らしには海の食材が用いられ、それぞれの自然要素による限定と「貧しさ」のなかにこそ、希少な豊かさが生まれる。都市的な環境や欲望の充足に適応したクチーナ・リッカでは、古代ギリシア人やアラブ人との交易や移住によってもたらされた食材、そしてコロンブス以後の植民地主義やグローバルな交易によって海外からもたらされた食材が活かされ、イタリア料理の歴史的縦軸を形成することになる。これに対して各地の特性に応じて発達したクチーナ・ポーヴェラは、北部・中部・南部および島々の自然環境に応じて使い分けられてきた素材を活かし、イタリア料理の地理的横軸として驚くべき多様性をもたらしてきたという。19世紀にはこれらの縦軸と横軸が組み合わされ、「貧しい暮らしのなかで生まれたテリトーリオの料理」として、世界に冠たるイタリア料理の伝統と多様性が築き上げられていった。
チェラントによる「アルテ・リッカ」「アルテ・ポーヴェラ」という芸術活動の対比の背景には、おそらくこうした「貴族料理」と「庶民料理」の対比があり、その土台となるような「貴族的な豊かさ」と「庶民的な貧しさ」の慣用表現があったのだろう。チェラントは、これを逆転した形で「豊かさの中の貧しさ」「貧しさの中の豊かさ」を問うことによって、戦後のグローバル社会の中で見落とされてきた、日用品や自然物を組み合わせた素朴な技芸としての現代芸術の可能性を見出した。アルテ・ポーヴェラは、まさに第二次大戦の戦勝国として圧倒的な経済発展を遂げたアメリカ主導の現代芸術に対するイタリアのテリトーリオからの抵抗であり、その文化的覇権に対するオルタナティブであったと言える。あるいは、それは戦敗国としての混乱やトラウマを超えて、かつてファシズムという神話的な全体主義に陶酔した国民たちが戦争で多くを失い、自身の歴史を振り返った時に見出した「テリトーリオの再発見」でもあったかもしれない。
いずれにせよ、この「アルテ・ポーヴェラ」を現代日本において実践するとき、それは現代社会という極端な豊かさと貧しさの分裂の中に、果実や野菜といった作物を育て、海に生息する魚や貝を採集し、あるいは野生の獣や鳥を狩猟し、放牧した家畜を糧としてこの地球上に生き残ってきた人類の歴史を再定置することにつながる。物質化と脱物質化といった難解な議論によって形成された第二次対戦後の美術批評を尻目に、廣瀬は田辺市の市民にみかんの苗を配り、新たな世界制作への夢を語る。このユニークな活動はどこに行き着くのだろうか。 百年前も今も、私たちはみかんを食べている。そして、20世紀末から21世紀初頭にかけての社会の変化は、もはやその百年前にヨーロッパを揺るがした知覚革命と同じくらいの震度で芸術の歴史を揺るがしている。私たちの身体はいまだに野菜や果実、肉や魚を食べているというのに、私たちの暮らしは石油や核エネルギー、コンピュータやスマートフォンによって形成されている。ますます分裂していく私たちの身体と精神に健康と正気を呼び戻すために、私たちは廣瀬に習って豊かな地中海の自然の中でこそ「アルテ・ポーヴェラ」が生まれた、という矛盾に立ち返ってみる必要があるのだろう。日本列島の本州最南端に位置する紀伊半島南部という温暖な土地に「農的なアルテ・ポーヴェラ」はいかに展開するか。この問いは、21世紀における豊かさ、貧しさとは一体何を意味するのだろうか、というより大きな問いかけとなって私たちの関心を惹きつけるに違いない。
[1] ローマン・クルツナリック『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』松本紹圭訳、あすなろ書房、2021年。
[2] 木村純子、陣内秀信・編著『イタリアのテリトーリオ戦略:甦る都市と農村の交流』白桃書房、法政大学イノベーション・マネジメント研究センター叢書、2022年。
[3] 廣瀬智央「アートプロジェクト「コモンズ農園」」紀南アートウィーク実行委員会、下田学編著『RRCIPE TO SURVIVE サバイブするための思考のレシピ』Art Port 株式会社、2025年、180-185頁。
[4] 『ふるさと上秋津 古老は語る』上秋津小学校育友会、1984年。
[5] 志村真幸『未完の天才 南方熊楠』講談社現代新書、2023年、120-122頁。
[6] 南方熊楠顕彰館Webサイト「奇絶峡」解説より(2026年3月13日最終閲覧)。
https://www.minakata.org/kizetsukyo/
[7] 「田辺市の農業法人、熊楠愛好の「安藤みかん」をジュースに」(産経新聞和歌山地方版・2015年2月15日配信記事。2026年3月13日最終閲覧)https://www.sankei.com/article/20150213-TW6GVFYC2FNPFIQPBUHAB3QZBY/
[8] 池野絢子『アルテ・ポーヴェラ 戦後イタリアにおける芸術・生・政治』慶應義塾大学出版会株式会社、2016年。
[9] 長本和子「イタリア食文化の価値――郷土料理を読む方法論」木村、陣内編著前掲書(2022年)、214-215頁。