植田 暁
【目次】
1.テリトーリオという概念
2.地域資源としての上秋津のテリトーリオ
2a.上秋津を読む
2b.上秋津を歩く
3.テリトーリオの再評価
3a.上秋津を語る
3b.コモンズ農園の開園
4.おわりに
謝辞
注、参考文献、地形図・空中写真
【本文】
毎日半袖で過ごせるほど暖かく、例年以上に夏らしさが残るという田辺市を訪れたのは2025年10月中旬のこと、当地を訪れるのは3年ぶりのこととなる。深夜に到着し、翌日から4日間の実働だったコモンズ農園をめぐる滞在レポートを、簡単に記したい(注1、注2)。
家屋が密集して幅の狭い街路が網目状に巡る田辺の旧市街は、歴史的な面影を色濃く残す。この魅力的な旧市街を出て、海を背に右会津川に沿って川上に向かう。沿道に混在する新しい市街地と田園の割合が次第に変化し、田園の風景が色濃くなる中を進むと、ほどなく川の右岸側、つまり進行方向に向かって左側の尾根が間近に迫り、次いで左岸側の緑に覆われた丘陵が前を塞ぐように近づいてくる。この間、約3.5km。町並みと田園の歴史的な結びつきがしっかり残されている。左右の尾根が近づき、右会津川に沿って谷底の道を上流に向かうと思いきや、視界が広がる。右会津川を挟む田園の周囲を急な斜面がぐるりと囲み、田畑と斜面の切り替わる辺りに、集落が点在し、斜面にはみかん畑と広葉樹林が分布している。その風景はイタリアであれば、歴史的な魅力が豊かに残されたテリトーリオ(territorio)と呼ばれるに違いない。
1.テリトーリオという概念
上秋津のテリトーリオについて稿を進める前に、イタリアに住んでかれこれ35年にもなる廣瀬智央氏が関心を示すテリトーリオについて、簡単に触れておこう。この言葉はイタリア語で「地域」や「領土」を意味する一般名詞だが、都市や集落、田園や森林を切り離せない自立した生活環境として、人々が愛着を込めて指す言葉でもある。その世界観は自給自足できる農耕と結びついた環境に端を発する。イタリアではエトルリア人もしくは同時代の先住民がつくった集落、そして彼らに同化したローマ人の定住環境が起源とされ、中世の時代に都市と田園を一体的にとらえた関係として確立された。ルネサンス期に入ると、貴族や有産階級たちが季節ごとに、都市の邸館(パラッツォ)と田園の別荘(ヴィッラ)に住む二地域居住をも意味するようになった。このテリトーリオという都市と田園の密接な関係は19世紀中頃まで維持されたものの、近代的な産業が勃興する過程で損なわれていった。
テリトーリオとかなり近い意味合いで、故郷や国を指すパエーゼ(paese)という単語を語源としたパエサッジョ(paesaggio)という単語もある。こちらは風景や景観を意味するが、同じく景観と訳されるランドスケープ(landscape)やランドシャフト(landschaft)とは異なり、多分に人文地理学やユネスコの世界遺産でいう文化的景観に近い意味合いがあり、テリトーリオの表徴として位置付けられている。こうした意味合いを持つ景観を、イタリアでは1947年から文化財として制度的に保護の対象とした。日本でも2005年になって重要文化的景観は文化財保護法のもと、文化財と位置付けられるようになった。ただし日本の場合は既往の文化財の類型との線引きがあるため、人文地理学やユネスコの世界遺産の文化的景観よりも守備範囲が限定的になっている。そこで筆者は、双方の混同が起きないよう、日本の文化財保護法における文化的景観を尊重しながら、海外で用いられる意味合いの文化的景観を説明する際に、テリトーリオという言葉を当てはめている。もしくは文化的景観という場合は風景画にもつながる審美的な側面から、テリトーリオという場合には人々の生活や社会経済の循環という側面から、という語り口の違いによって使い分けている。
筆者が研究するイタリアの都市計画の分野では都市や田園の全体像を、医学の分野で人体の全体と部分の結びつきを説明するのに用いたテッスート(tessuto 組織)という用語を応用しつつ説明してきた。人体というテッスートが骨格や様々な働きをする臓器、動脈や静脈から毛細血管に至るまで全身に張り巡らされた血管、そして細胞が有機的に結びついて成り立っているように、都市には基盤となる構造や様々な社会活動や経済活動を行う施設、幹線から横丁に至る道路網があり、そこに数多の建物が並んで建つとなぞらえる。人体が完全であるためには、全ての細胞が欠かせないのと同様に、都市を成立させるためには小さな家屋であっても欠かせないという理解である。田園の場合は農場が都市における建物に相当するとされてきた。細胞たる建物や農場が示す一定の傾向を分析することにより、都市や田園の性格を読み取ってきた。この手法を駆使しつつ、田園の乱開発が急速に進んだ1970年代から、都市と田園の均衡を取り戻すべく、テリトーリオという単語が戦略的に使われるようになった。都市と田園が一体となった生活環境を文化的な受け皿として捉える世界観が、産業革命による不均衡や第二次世界大戦による荒廃を反省する対話を経て、国民的に共有されていたためだ。1990年代に入ると、歴史的な市街地を丸々残し、豊かな食材を生み出す田園を維持すべく、テリトーリオを歴史的な地域資源と位置付けるようになった(注3)。しかしそれは単なる懐古的な歴史の掘り起こしではなく、21世紀に向けて歴史的な価値の再評価、新たな価値づけを伴うものだった(注4)。こうしたテリトーリオの概念や動向を、陣内秀信が率いる学派がリアルタイムで日本に紹介してきた。
さて、このレポートで取り上げたいのは、こうしたイタリアのテリトーリオの再生、地域おこしの成功物語の一歩手前、テリトーリオの魅力を資源として発見し、再評価するための対話についてである。その魅力を他者と共有できる言葉で理解するには、3段階のステップがある。第1のステップは、場所の固有性を評価する目を持つこと(注5)。第2のステップは、土地の固有の魅力を深く観照し、テリトーリオを高い精度で読み解くこと(注6)。第3のステップは、新しいもので塗り込めようとせずに内発的な展開を支援すること(注7)。そして第2と第3のステップは、先述の言葉に書き換えれば、歴史の掘り起こしとその再評価となる。一見正反対の方向性を示しているようだが、対となって相乗効果をもたらし得る2つの価値観であり、そこにこそ対話の真価が発揮されるのだ。
原和男氏と顔合わせする筆者 写真: Tartaruga
2.地域資源としての上秋津のテリトーリオ
2a.上秋津を読む
上秋津を初めて訪れたのは2022年10月上旬のこと。歴史の色合いを濃く残す豊かな風景を一目見て、幾世代にも渡り維持されてきたことが分かり、胸が熱くなったことを昨日のことのように思い出す。この時には国際的な弁護士事務所を開設した薮本雄登氏が地域貢献を志して開催する文化事業「紀南アートウィーク」の一環として開催された、廣瀬氏による展覧会「みかんコレクティヴ」の会場を訪れたのだが、彼とのトークショーを終えた、江戸後期から続くみかん農家の7代目という原拓生氏から、「(ご自身が)幼少の頃から斜面地の景色が大きく変化した。斜面地のみかん畑の相当な面積が森に戻っている」と伺ったことが強く印象に残っている。そしてその頃の風景を、是非とも想起してみたいと感じた。それから3年、この度は父上の和男氏が実際に秋津野のテリトーリオをご案内くださるという。
今回の滞在で読むことにしたのは、地形的に最小規模のテリトーリオである。その範囲を具体的に記すと、三星山から岩内集落に降りる尾根筋を西の、高尾山から南下する尾根筋を東の、高尾山からの尾根筋が西に90度曲がった窪田川右岸の尾根筋を南の境界線とし、北の境を右会津川の両岸の急傾斜が窄まる川中口発電所跡辺りとした。この南北に長い谷地形は、右会津川両岸の平坦な農地を、東西の尾根の麓を辿るような道と集落が挟み、四方を急勾配の尾根に囲まれている。それはちょうど、「田辺市上秋津村上秋津」の農業集落の1、2、4、5と3の南に当たる。平安時代には藤原氏の荘園、幕末には紀州藩附家老安藤氏の領地で牟婁(むろ)郡上秋津村となった長い歴史がある土地だ。明治22年の町村制施行により独立した自治体、西牟婁郡上秋津村が、上秋津の農業集落の全体像として引き継がれている。今回は地形に基づきテリトーリオを設定したため、対象とした地区は、右秋津川右岸の園原、千鉢、杉ノ原、左岸の平野、河原のみとしたが、この他に右会津川右岸の岩内、右岸側支流の左向谷川の左向谷、左岸側支流の稲屋川沿いに分布する奥畑、下畑、やはり左岸側支流の久保田川右岸の久保田、左岸の藤谷の計11地区が上秋津の農業集落となる。一方、コモンズ農園は右会津川の西隣の左向谷川(さこだにがわ)両岸の尾根線に挟まれた農業集落「田辺市上秋津村上秋津11」の右岸に立地している。
右会津川の利用の変化を語る原和男氏 写真:下田学
せっかくの機会なので、秋津野というフィールドを歩く前に、歴代の地形図に目を通してみた。テリトーリオを理解するには、実は地図の分析が欠かせない。日本の場合は、江戸時代までの絵図と明治以降の陸軍の陸地測量部による地図で、性格がくっきり分かれる。前者は抽象化されデフォルメされているが、その図に込められた意味や価値観を読み解くことができる。また土地の利用方法も把握できる。後者は信頼に足る測量水準で、現代の国土地理院地形図まで、近代化の過程でテリトーリオに起こった変化を理解できる(注8)。
今回のテリトーリオの特性は、3期に大別できる。
第1期には、地形とコミュニティの広がりが一致して形成されたテリトーリオの原型が完成した。1889(明治22)年は、上秋津村という自立した行政単位が誕生し、今回のテリトーリオがコミュニティの中心地とされたようだ。ただし同年の8月17~20日には十津川大水害を引き起こした台風により、上秋津も流域こそ違うものの、大洪水に見舞われた(注9)。この災害の直後から国を挙げた大復旧が行われたためだろう、1911(明治44)年測量・1916年発行の5万分1地形図からは、その爪痕は読み取れない(注10)。その後の地形図から見る耕地の変遷は、直交軸を規範とした変化であることが明らかである。その後、右会津川の両岸の日常的な往来が容易になったことが、住民のひとつのテリトーリオに住む意識に大いに働きかけたことは想像に難くない。それは右会津川両岸の平坦な土地に水田が広がり、尾根の麓の生活道を軸とした集落が点在し、斜面には果樹園が分布し、広々とした風景だったはずである。こうした風景は1953(昭和28)年測量・発行の5万分1地形図まで残されている(注11)。
第2期には、両岸の生活道に挟まれた農地における果樹園の耕地面積のダイナミックに拡大し、両岸の生活道に沿った集落の歴史的環境が安定して維持された。右会津川の両岸の平坦な土地ではまず、右会津川の両岸、次いで左岸側の集落の西に隣接するように果樹園に切り替えられ、斜面の畑も広がっていった。この頃は作付けが変わったものの、農地に建つ建物は殆どなく、テリトーリオの原型が維持されていた。果樹園の作付けそのものも、柑橘類に加え、梅が加わり、増え始めた頃だった。現在の県道29号田辺龍神線が左岸に開削されたことによって、右岸川の街道は生活道として利用されるようになった。このことが右会津川両岸の町並みに変化を促す外圧を軽減するように作用したと考えられる。こうした風景の帰結は、1988年測量、1990年発行の地形図に記録されている(注12)。
現代に至る第3期には、平坦地における土地利用の複雑化と斜面地の果樹園の若干の変容である。1992年の空中写真から、すでに左岸の地形が平坦な農地の只中に、ミニ開発の規模に留まる住宅地や戸建て住宅が点在していたことが明らかになった。これらの区画であっても、農地の区画を踏襲するといった、下敷きとなった風景の文脈は読み取ることができる。一方、河原の斜面に立地していた果樹園を開発した住宅地も、すでに完成していた。こうした新たな宅地に住む非農業従事者の転入は1980年代半ばから始まったという(秋津野塾:神吉他,2002)。県道29号の開通が田辺市街地との移動時間を短くし、新たな良好な居住環境として認知されたことは想像に難くない(注13)。
1947年の空中写真で確認できる戦前から続くであろう樹林地の地割と水路 写真:内野晴日
幸い、地形図と空中写真の読み取りから見出した3段階の変節は、地元の地域づくり組織「秋津野塾」や建築・都市計画の分野で2000年代初頭にこの地域に先駆的に取り組んだ神吉紀世子氏(現・京都大学教授)による研究成果とも付合を見た。一方、農業集落「田辺市上秋津村上秋津11」に立地する現・コモンズ農園は、全ての地形図や空中写真において、果樹園として利用され続けてきたことが把握できた。
2b.上秋津を歩く
アートプロジェクト『コモンズ農園』関連ツアーとして、紀南アートウィークの事務局の下田学氏が中立ちしてツアーと称し、原和夫氏に上秋津のテリトーリオをご案内いただいたのは、10月18日(土)の午後のこと。その前日にご自宅に挨拶に出向いたところ、互いに共通の知人が何人もいたことに、個人的には驚いた。その際に、名所や奇景よりも歴史的な農業の景観の成り立ちや仕組みを知りたい旨をお伝えすることができた。我々の関心が農業だったためか、ツアーで案内くださる切り口が湯水のように湧いてきて、気がつくと1時間以上も話し込んでいた。
当日は開始時刻にいささか雨に見舞われたものの、直ぐに薄曇りとなり、ツアーには最適な日和となった。簡単に約2時間のルートを紹介しておこう。秋津野ガルテン(旧上秋津校舎)を起点に反時計回りに、千光寺、稲屋川沿いの集落、右会津川左岸の平野と河原の集落を経て川上神社まで北上し、小水力発電所を見ながら、川中口橋で右岸に渡った。そこから杉ノ原、千鉢、園原の集落を南下し、森橋を渡って左岸に戻り、出発点に戻るという流れだった。この2時間で原和男氏から受けた興味深い話題は枚挙にいとまがないが、地形図からは読みきれなかった農業地域における歴史的な景観資源について、5点ほど触れておきたい。
手摘みした擁壁や間知石積みの擁壁、ブロック塀、瓦屋根の家屋、蛇行する道が見せる歴史が重層した風景(杉ノ原集落) 写真:内野晴日
第1に、集落形態の多様さである。右会津川の右岸と左岸では、集落形態が全く異なる。いずれも尾根の麓、つまり斜面と平坦な土地が切り替わる辺りに立地し、両岸でそれぞれを川に並行な生活道が結びつけている。直角方向に地形断面を切ると、集落を挟んで川側に水田、斜面側に果樹園を擁するという大きな空間構造も共通している。右岸の園原、千鉢、杉ノ原はいずれも、1980年代初頭までは田辺市街と龍神村を結ぶ街道だった生活道に接しているものの、傍に逸れて集落内に入る。20世紀後半の地形図の凡例には「樹木に囲まれた居住地」と記されている。この凡例が意図するところは、生垣に囲まれている場合もあるが、建物と空地が密接に結びついていた一群の空間も指した。これらの集落も多分に漏れず、母屋から作業小屋に至るさまざまな建物や、農地や作業のための空き地が有機的に結びついているようである。しかも生活道から分岐した3つの集落の幅員3mもない道のネットワークは、いずれも異なる個性を有している。一方、平野、河原の集落は、生活道に沿って細長く、秋津野ガルテンから川上神社を結ぶ生活道に沿って立地している。道の左右に住宅や作業小屋、道と一体的に利用できる作業場、そして柑橘や梅の果樹が入れ替わり現れる。こうした集落形態の多様性は、ふたつの生活道の果たしていた役割、右岸は田辺市から龍神村を結ぶ開かれた街道、左岸はあくまでも地元のコミュニティを連絡する道という違いによるものかもしれない。一方、各集落の家屋の多くはトタンや波板、サイディングといった20世紀に普及した素材で覆われているが、その内側には有形文化財として評価の俎上に載せうる築年数の建物が残されていることが見受けられる。
第2に、手積みの石垣である。概ね両岸の2本の生活道よりも外側の斜面に分布し、勾配
の如何に関わらず、果樹園の範囲をかたちづくっている。急勾配の斜面では、柑橘類には欠かせない水はけの良い傾斜畑を広く確保している。上秋津で120haほどあった水田の一部は石垣で造成した棚田だったという。平坦な土地でもいささかの段差で石垣が組まれており、集落内でも敷地の基壇として利用されている。河原では生活道に面して、低い石垣が数段のひな壇を形成した果樹園の前を通りかかった。雛壇はおそらく平均的にリズミカルに段を重ね、各石垣に沿って水路があり、ところどころで道沿いの水路に合流する。果樹も規則正しく植えられており、斜面を巧みに利用した造形だった。このように集落、平坦な土地、斜面地を問わず、石垣は地形と開墾を結びつける象徴的な造形としてテリトーリオ全体に分布している。そして上秋津の石垣積みの技術の高さは評判で、農民のサイドビジネスでもあったという点も大切な歴史も伺った。
20世紀初頭に期限を辿ることのできる用水路 写真:内野晴日
第3に、テリトーリオ全域に張り巡らされた水路である。手積みの石垣で形作られていれば、その場所の歴史的な価値は高い。ただし今や水路の殆どは建設資材、例えばコンクリート製のU字溝、金属や硬質なプラスティックで作られたパイプ、円形や四角形のコンクリート桝、果てはホースなどでルートを確保されている。しかしながら、水路の価値は部分ではなく、そのルートやネットワークの全体像にこそある。右会津川の両岸の生活道に挟まれた平坦な土地の水路には近年まで幾度も手が加えられたと想像できるが、集落内や傾斜地の水路のルートを変えるのは至難の業で、相当に起源を遡ることができるはずである。原氏からも「水路の流れはそう簡単には変わらない」と伺った。今回のツアーでは傾斜地の水路を見ることは叶わなかったが、集落の側を常に水が流れ、また斜面地から取水している様子も確認できた。上秋津では水路網を「一の井」「二の井」(いちのせい、にのせい)と呼ぶそうだ。こうした田畑に供給する水は必ず湧水だそうで、斜面を下りせせらぎとなる水は「荒れた水」と呼び、利用しないのだという。このように水路の全体像には取水の方法も大切な側面として含まれる。1990年代以降、農業に従事しない人々の受け皿として作られた住宅地から出る雑排水が、水路網に流されるようになったという。あらためて地域資源として、水路網の全体像を顕在化し、価値を共有する必要が迫られている。
第4に、公共空間に設置された、お地蔵さまに代表される小さな祈りの場である。上秋津のテリトーリオには35ヶ所も祀られている場所があるという。今回のツアーでは、そのうち9箇所確認した。こうしたお地蔵さまには、民間信仰の場としての価値は無論のこと、場所の持つ意味を象徴する役割を与えられる場合があった。例えば千鉢の地蔵であれば、右会津川の深く青い淵にはまって亡くなった人や馬を供養するために、清水の地蔵は附近の10戸程の家に飲み水を供給する井戸を守護するために、それぞれ祀られたという。この井戸は掘りが浅かったにもかかわらず、水が涸れたことはなかったそうだ。おそらく斜面地の地下水が染み出していたのだろう。一方、お地蔵さまの立地には、集落の中程の住民が気軽に集まる場所と集落の結界という2通りの傾向があるとも伺った。確かに稲谷口の地蔵は秋津野ガルテンと川上神社を結ぶ平野や河原の集落の生活道と、下畑方面に向かう稲屋川沿いの谷道との丁字路に祀られている。千鉢の集落では町並みの北端に上記の千鉢の地蔵、南端に清水の地蔵・皆回り地蔵がそれぞれ祀られている。このようにひとつのテリトーリオ内の地形を象徴するだけではなく、細かな領域性を表す意味合いを新たに加えられるに違いない。そうすると複数のお地蔵さまが異なる場所から同じ意味を発信することで、新たなテリトーリオのイメージを浮き彫りにできる筈だ。お地蔵さまとは、そうした可能性を秘めた地域資源かもしれない。
テリトーリオの授遺書に祀られさりげなく手入れされている地蔵が収まるお堂の一つ 写真:内野晴日
第5に、東の尾根と西の尾根の麓の地形を辿る生活道と、そこからの眺望である。眺望といっても、展望台から遠望できるパノラマとは違い、地面に近い目線でテリトーリオに肉薄できる楽しみがある。これらの道がテリトーリオの歴史の担い手であることは勿論だが、通過交通の殆どない2本の生活道は曲がりくねり、道路の軸方向の視界は左から右、右から左に振られ、次々に新しいものが現れる。目に留まる対象は様々な建物、平坦な土地の水田、梅や柑橘類の畑、植林地や広葉樹林と多様性に富んでいる。さらにこうしたものが近景ならば、目線を上げると中景、遠景をランダムに見ることができる。空間の異なる広がりや奥行き感を感じられ、安全に歩き続けられ、テリトーリオを一巡する5kmほどのルートそのものが、理想的な地域資源といえる。
以上のように上秋津の地域資源として強く印象に残ったことを列記したが、文化的景観を構成するものは、往々にしてとても慎み深くさりげなく、場合によっては申し訳なさそうに存在している。「こんなもの」を評価することこそ、文化的景観を定義する醍醐味といえるだろう。
原氏の説明を聞きながら歩みを進めると、DIYの痕跡がそこここで目に留まる。20世紀に登場した鉄、コンクリート、石油由来の材料、さらに斜面地では果樹園ごと大きな雨水溜めの代わりのバスタブが置いてある。こうした材料や部品を良しとするのか、景観に綻びを与えるものとして排除すべきなのか、という議論もある。筆者としては現場を担う個々人の工夫として前向きに捉えているものの、これが蔓延して風景が塗り替えられてしまうという危惧も理解できる。
ここに記した資源は、原氏から伺った内容のうち、ほんの一部に過ぎない。加えて意識化されていないものも多くあるはずだ。原氏が幼少期に川の淵で泳いだことを昨日のことのように話す姿、川上神社の荒っぽい祭りとその所以を打ち明け話のように話す姿からは、彼の心と体に染み込んだ変わらない風景を感じる。江戸末期から始まったみかん栽培から南高梅の開発の話題まで、農業について話す目線や声からは、自信と誇りを感じる。そして行く先々で声を掛け、掛けられる姿、秋津野塾の話題になるとに言葉に熱が籠る姿、数値や年代を澱みなく語る姿には、地域おこしの中心を長年に渡り担ってきた心根に深い敬意を覚えた。こうして過ぎ去った、あっという間の2時間コースだった。今回の滞在で、右会津川、左向谷川流域の平坦な土地は、明治の災害復興が基本となった景観であることが分かった。とすると、今回はツアーの対象にならなかった斜面地に、江戸時代まで遡れる果樹園が残されているかもしれない。次回はこうした樹園地や、コモンズ農園のある農業集落「田辺市上秋津村上秋津11」の左向谷川流域の分析とフィールド調査をしたい。
集落と、その背後に迫る手摘みの石垣が支える果樹が植えられた段畑 写真:内野晴日
3.テリトーリオの再評価
3a.上秋津を語る
10月18日(土)の晩は、やはりアートプロジェクト『コモンズ農園』関連企画として開催された「座談会・田辺の文化的景観」に参加した。冒頭の30分ほどで、この催しのモデレータを務めた紀南アートウィーク事務局の下田学氏から予め提案を受けた「文化的景観とテリトーリオの違い」、「「文化的景観やアートが実際の暮らしとどう接続しているのか?」という視点からの講話をした。また、この度の訪問に先立ち、6月には遠隔会議システムを利用した勉強会「テリトーリオとコモンズ農園 土地の物語を未来へつなぐ」の第一部で、今回の前章譚となるようなイタリア・トスカーナ州オルチャ渓谷と北海道中標津町での取り組みを事例として挙げた講話を開催した。その時には同じく事務局の山本玲子氏がテンポ良く会を回してくださった。いずれも紀南アートウィークのインターネット・サイトに座談会の記録が掲載されているので、参考文献に載せたurlに接続し、ご一読いただければ幸甚である。この録音データの文字起こしは、私がつい口にしてしまった聞き慣れない専門用語やイタリア語の日本語表記に戸惑いながらも漏らすことなく拾い上げてくださった、やはり事務局の小川実咲氏の労作である。
この座談会でテリトーリオについて、筆者は地域資源としての再発見という視点から語り、廣瀬氏はコモンズ農園の活動として「立場の違う人たちが出会ったり、いままで交わらなかったようなシチュエーション生まれる場でありプロセス」(一部短縮)と論じていた。廣瀬氏の語る視点は、イタリアの歴史的地域資源の保存活用を研究する者の間では、往々にして冒頭でも触れた「再評価」という言葉を当てる。ただし都市計画の実践に進む前に、分厚い研究と対話がおこなわれる点を強調しておきたい。決して計画ありき、計画を成立させるストーリーづくりをするための最低限の調査などではない。調査の裾野の広さと深掘りの度合いが、豊かな価値の集合体に結びつくのだ。こうした価値観がこの座談会に集まった聴衆の皆さんの間で共有されたであろうことを祈っている。
多くの人々の参加を得た座談会 写真:下田学
この座談会には私と廣瀬氏の他に、岩佐郁氏と問山美海氏というふたりの地元在住の若手のメンバーも参加してくださった。下田氏の2つ目の問いには、抽象論よりも、地元の現実味のある話題の方が、よほどしっくりくるだろうと考え、予め筆者からお願いしていたのだ。問山氏は通勤時にわざわざ遠回りをするずっと広がる梅畑に挟まれた未舗装の道、岩佐氏は散歩で歩く数多くの野鳥がいる川沿いの道がとっておきの風景だそうだ。いずれも日常的な風景である点で頼もしさを感じた。こうした感性こそ、文化的景観を支えるのだと思う。その上、前者は歴史の、後者は環境のナラティヴの一端と捉えられる。
農業地域ならではの共同作業、旧弊なコミュニティを現代的な地域づくり団体にスライドさせることに成功した秋津野塾の存在といった、景観を維持するための合意形成を念頭に置いた話題も提供された。上秋津にはいつからか人知れず手入れされている地蔵堂があり、常に花を絶やさないといった話題も魅力的だ。一方で、農業地域は隅々まで管理された空間であるにもかかわらず、新たに転入してきた住民は自然と捉え、担い手の存在を意識していないようだという意見もあった。こうした認識の違いから齟齬が生じてしまうとしたら、それは管理のあり方や地元のルールが共有されていないためと想像できる。これらの視点はいずれも、仕組みづくりやシステムの構築といった、不特定の人々を念頭に置く行政主導型のまちづくりでは十分に語り尽くせない。同じ風景を共有し、理解を深めた上で維持するための、常なる対話の場をを設けたいところだ。
コモンズ農園に結びつく緒として、問山氏から「コモンズ農園はアートがゴールだとしたら、どういうみかんを作るのか少し気になります。」との問いかけに、廣瀬氏は「このプロジェクトは僕だけの作品ではないんです。みかんをテーマに、いろんなアーティストに参加してもらってもいいと思っています。みかんを栽培するにあたって 様々なストーリーがあるみかんを作りたいです。」と答えていた。この受け答えを入り口に、コモンズ農園と、テリトーリオ / 文化的景観の有機的な関係性について私見を述べてみたい。
3b.コモンズ農園の開園
前述の2つの関連企画を経た10月19日(日曜)、薄曇りで外仕事にはもってこいの天候
の元、田辺市在住の親子や筆者を含めて全国から駆けつけた面々が、コモンズ農園開園と植樹に参加した。簡単な挨拶を済ませると早速、苗木を植える場所を決めて作業開始となった。参加者は互いに手を貸し合って穴を掘り始め、農業に従事する方が歩き回って次々と助言してくださり、幾人かは刈り取った下草や小枝を焼く、そのような一人ひとりが自らの意思で作業を選べる自由な雰囲気で植樹が進んだ。ショベルを握る手を止めて一息吐こうと体を起こせば、眼下には左向谷川とその集落が見え、さらに先には田辺湾を一望できる。左向谷川左岸の尾根向こうが右会津川流域で、前日のテリトーリオとなる。
廣瀬氏がコモンズ農園と名付けたアート作品は、左向谷川の右岸の分水嶺となる、重善山の尾根筋から風を避けられる程度に少し下った場所にある農地だ。この尾根を西側の境界とする農業集落「田辺市上秋津村上秋津11」に位置する、約2500㎡(2.5反)の広さを持つ。2つのほぼ同面積の矩形の区画がずれたかたちで連続しており、上の区画の勾配は約13度、下の区画は約27度あり、典型的な斜面の果樹園である。明治以降の地形図や空中写真をさかのぼると、最も古い1911(明治44)年測量・1914年印刷の地形図以降、全ての地形図や空中写真において、この辺りが果樹園として利用されてきたことが分かった。空中写真からは、この農地の特殊な個性が明らかになった。一般的に果樹は樹間を一定の長さに保ち規則正しく並ぶが、1965年以降の写真では樹木が不規則な並び方をしている上、枝張りもまちまちだった。廣瀬氏によると、地主が3世代にわたって、自然に寄り添う栽培方法を旨とした農業を実践してきたとのこと。それであれば、この一風変わったこれまでの樹木の配列も理解できる。廣瀬氏が平素から食や環境を豊かさのバロメータにしている考え方と土地が共鳴し、必然的に巡り合ったかのような印象を受けた。こうした農地を継承することの意義を地域資源という側面と、対話の場という側面から述べてみたい。
テリトーリオの地域資源という意味では、この農地を営農し続けること自体が、すでにその歴史的な価値を継承することは間違いない。一般論として果樹園は、担い手の高齢化などにより運営が粗放化の末に耕作放棄されても、果樹が伐採されることはないため、すぐにその姿が変わることがないという。上秋津は耕作がままならなくなった農地の再生でも全国的に知られているが、油断はできないようだ。歴史的な資源としての証左という意味では、空中写真を遡ると、画質が不鮮明な1947年の写真からですら、土地の輪郭や尾根道の検討がつく。この価値をさらに確実に立証するのであれば、不動産登記簿や地目を調べることで更に年代を遡ることができる。営農の証として生産の記録があれば更に強い。所有者の環境にたいする想いは発信こそしていないものの、現代のニーズを先取りしており、潜在力を秘めている。この農園も上秋津というテッスートの立派なひとつの細胞なのだ。
さて、こうした場所が持つ地域資源としての可能性とは別に、個人的にコモンズ農園の開園後の運営にたいする期待を記しておこう。前項で報告した座談会で「アートをゴールとしたみかんとは?」という問いにたいする廣瀬氏の返答は、直球であるが故に抽象的だったが、深い含蓄があった。この言葉に対する筆者なりの想いを書き留めることにする。この座談会で筆者は、実態ある営農の場、地元の社会活動の延長の場、上秋津を外の目を通して新たな価値を見出す場という、3通りの活動がコモンズ農園に重層することを期待とした。まず、実態ある営農の場としては所有者の個性的な栽培理念を継承できるようだ。テリトーリオを育んできた人と新たに定住した人たちの定常的な交流の場になれば良いが、最初はさまざまな切り口のプレゼンテーションの場として活用するだけでも意味がある。外の目はこうした地元の立場の違う人々が共通して感じている価値を、「ここにしかないもの」として提示できるかもしれない。ただしこの外の目は、両者が共に内発的な発展を遂げる後押しをするのであって、これまでの蓄積を塗り込めて別のものに変質させるように働くのでは本末転倒になってしまう。
廣瀬氏はここに対話の場としてテラス状のプラットフォームや、宿泊を可能にする小屋を作ることを想定しているそうだ。それであれば、たとえばこれまで重ねてきたみかんコレクティヴの対談や講座、田辺市の歴史的な市街地にあるシェアハウスの共有居間で開催された今回の座談会のような催しは、いずれコモンズ農園で開催することが理想といえよう。
実は廣瀬氏がこうした対話の場を創出したのは、今回が初めてではない。1996年に札幌で個展「una volta」を開催した際に、関連企画として筆者とともに札幌市のすすきの近くの遊休地を借り、対話の場を創出し、3週間ほど寝泊まりした。このときには主に美術系、建築系の学生や教員が毎日訪れ、夜遅くまで語らい、中には宿泊する者も現れた。その時にも新聞社、材木業者、不動産業者、周囲の物販店や飲食店のオーナーらの協力を得られたが、コモンズ農園では来訪者の年齢も社会的な属性も幅が広がることは間違いない。その上、生産の現場で農業に従事する方々の協力を仰げることが大きく違い、何事にも変え難い支えだ。
この植樹をサポートしてくださり、みかん農家を経営する小谷大蔵氏は、「普通に考えれば、こうした植え方はしない。とはいえ、異なる樹種が隣り合うことで互いに良い影響を与えることもある。そういう組み合わせを発見していく機会にしても良いのでは」「収益を度外視して、正しいと思うことを実践してみる機会は滅多にない」と前向きに捉えておられた。こうした見解を持つ専門家に助言や協力を仰げるのは、とても心強い。農業の場を借りながら、初源的な農に想いを馳せ、そこから上秋津ならではのテリトーリオを想起する場になる頃には、コモンズ農園は唯一の個性を持つ地域資源として広く知られ、動きを止めることのない、これまで観たことのないアート作品としての地位を確立していることだろう。
4.おわりに
このレポートの前半では、上秋津の文化的景観に相応しい地形的特徴や、文化的景観の構成要素になりうると判断した物理的に存在する場所や物の特徴を、時間と空間の観点からレビューした。後半ではこうした要素を紡いでいく意識を取り上げた。最後にコモンズ農園の、テリトーリオ / 文化的景観との有機的な結びつきについて、筆者が特に着目している「関係性の顕在化と再編」、「入れ子状の公共性」、「生産と象徴」という3つの切り口から述べてみたい。
まず、関係性の顕在化と再編について。農業に従事する方を中心とした従来の住民と1980年代以降に転入してきた非農業従事者が、風景の価値を共有しつつも認識の違いを抱えてきて40年が経つ。この違いを乗り越えられるのは、文化的景観しかないと筆者は考えている(注14)。目の前に広がる風景に不要なものはない、というところからスタートし、全ての住民によって生きられた様々な物と事の関係を顕在化し、再編し、再定義して共有するために対話を重ねることに意義がある。上秋津というテリトーリオを、自然の要素であれば地形や地質、気候、人が歴史的に生み出してきた要素であれば農作物を生産する農地と建物から成り立つ農場、土木的造形、民藝や工芸、そこに加わった新たな住宅地、そして労働や管理といった社会的システムや経済的循環…これらが有機的に結びついた全体像(テッスート)を、今と未来の視点から再評価することが求められていると感じている。こうした検討の中で、コモンズ農園は個性的な対話を象徴する空間でありながら、農場という一つの細胞として実態のある、しかし恐らく緩やかな営農活動を継続していくだろう。
次に、入れ子状の公共性について。風景は半公共空間の集積である(注15)。田畑にせよ植林地にせよ、林道にせよ水路にせよ、各々は不動産として数多くの所有者や管理者がおり、その全体像が風景である。この風景を成り立たせているものを、所有や管理から土地利用や産業といった観点に広げてみる。例えば柑橘畑や梅畑という作付けによる括り、一回り広げれば田や畑、樹園地という耕地の種類による括りになり、さらに農業の生産の現場という農地全域の括りといった具合に、境界は入れ子状に存在する。ところが一方で離農が起これば、境界線は動き、風景は変化し、再び個の境界線が意識される。これが冒頭に記した原拓生氏が語った風景の変化を起こす現象である。一方、上秋津に長年に渡り住んできた人々と、当時の新住民の双方にたいして2000年に実施されたアンケートでは、ほぼ同じ景観評価が導かれていた(神吉他、2001)。このアンケート結果を詳しく分析すると、すでに四半世紀前には、風景にたいする意識に明らかな相違が生じていた(注16)。物理的な境界であれば、個人のレベルから司法のレベルに至るまで、解決方法が確立されている。が、このアンケートは、思考上の境界を解きほぐして価値を共有するために、対話を始める必要があることを示唆していた。コモンズ農園は風景の中のひとつの細胞でありながら、極めて対話を象徴する空間であるが故に、上秋津に住宅地として転入した人々にたいして開かれた場になりそうだ。
最後に、生産と象徴について。前の2つの切り口と比べると、最もコモンズ農園らしい特徴といえる。ここでは実際に農作業を行なう。収穫物は主に廣瀬氏のインスタレーションに活用されると聞く。消費者に出荷する必要はなく、純粋に土に触れ、苗木を植え、ある程度育ったら剪定し、実を収穫するという過程を体験する。農業としての経済活動には結びつかないものの、地域資源としての農地保全には貢献できる。並行して選べるのが知的な生産行為だったり、自然のなかでゆったりとした時間の流れを感じつつ宿泊できる内省的な経験だったりする。人々は記憶や風景を媒介に、労働を通じて身体の、思考することで精神の均衡を保ちつつ、土地のナラティヴを紡ぐことができる。こうして異なる背景や価値観を持つ人々が出会い、心身ともに場と話題を共有し、協働する。コモンズ農園は農園という生産の現場の顔を持つ、同時になにごとにも属さない、幾つもの顔を持つ対話を象徴する空間になるのだろう。
19世紀の後半から推し進めてきた近代化が、全国でおしなべて同じような農業地域をつくりあげてきたのであれば、これからは農業の担い手たる旧住民、良好な住宅地として住む新住民、上秋津ならではの魅力を発見できるであろう外の目が共に、上秋津のテリトーリオらしさや農業者の誇りと愛着を思い出し、現在の価値観で再評価し、結びつければ良い。その舞台となるコモンズ農園は、対話の象徴から、上秋津もしくは田辺のテリトーリオ / 文化的景観の世界観を象徴する存在になるに違いない。
謝辞
現地で貴重な知見と体験を提供くださったみかん農家の小谷大蔵氏、原和男氏、原拓生氏、松坂進也氏(有田町)、座談会で上秋津の魅力や生活を語ってくださった岩佐郁氏と問山美海氏、催しを企画してくださった紀南アートウィーク実行委員長の薮本雄登氏、同実行委員会の小川実咲氏、下田学氏、山本玲子氏に感謝の意を表します(適宜50音順)。そして35年に渡ってイタリアのテリトーリオの魅力を共有してきた廣瀬智央氏に上秋津再訪の機会を提供していただきました。ここに深謝申し上げます。
注
注1:スケジュール
小笠原敏晶記念財団の助成を受けた今回の上秋津滞在は、以下の日程で実施した。
10月16日(木曜)
・田辺市着、前泊。
10月17日(金曜)
・廣瀬智央氏、事務局メンバー(下田学氏、山本玲子氏)と合流。
・コモンズ農園下見。
・原和男氏、拓生氏に挨拶、下打ち合わせ。
10月18日(土曜)
・紀南アートウィーク「コモンズ農園」関連イベント「地域を識る ̶ 田辺のテリトーリオを巡る」に参加
(13:00~15:00)。
・紀南アートウィーク「コモンズ農園」関連イベント「地域を識る ̶ トークと座談会・田辺の文化的景観」発
表者(19:00~20:30)
10月19日(日曜)
・コモンズ農園開園・植樹(10:00‒19:30)
10月20日(月曜)
・コモンズ農園候補地視察:田辺市大坊地区、高原地区
注2:コモンズ農園の候補となった農業集落「田辺市芳養町7」の大坊集落、中辺路町高原の農業集落「二川村高
原1」の高原集落という2箇所の集落を視察した。すでに農業集落「田辺市上秋津村上秋津11」の左向谷川
右岸の農場に決定していたので、地形と集落の立地、道の構造、テリトーリオの地域資源として着目したい
点について一言ずつ述べるものとする。大坊集落は田辺市の海岸線より4kmほど内陸に入った尾根筋にあ
り、標高150mから289mの間に位置する。地形的には尾根の突端、しかも緩勾配から急勾配に変わる位置、
つまり平面的にも断面的にも凸状の形状を示すため、日本では珍しい立地と考えられる。廣瀬氏は「まるで
イタリアの集落のよう」と形容するが、そうした印象は以下の特性を有しているためと考えられる。このた
め集落はU字型の骨格を持ち、道の先には常に空が見えているシークエンスが続く。集落の構造は等高線に沿
った道が幾段もあり、これらの道をつなぐように等高線に直行する複数の道が配され、あみだくじ状の構成
となっている。神社は標高が最も高い土地に、小学校は最も低い位置に建つ。建物と畑は隣接しており、農
地が外に向かって広がることはない。石垣によって土地の勾配を緩やかにし、建物の敷地や段畑を形成して
いる。大方の建物は長手方向を等高線に並行な道に沿わせて建つ。柑橘類が主たる作付けなので、畑は傾斜
畑でもあり、石垣の際にきれいに刈り込まれた槇の生垣を配している。高原集落は田辺市の海岸線より17km
ほど内陸に入った山間の、西北西に面した斜面にあり、標高300mから400mの間に位置するが、田は標高
250mの高さから始まる。西側に富田川が流れ、標高差約200m超の谷を形成している。集落はY字型の骨格を
持つが、県が定めた車輌が通行可能な道沿いに分布したためである。1980年代より前は、この道と本来の参
詣道(徒歩道)がほぼ同じ規模と利用状況でX字型の構造を有していた。その他の細道は個々に現車輌道から
枝分かれするかたちで延びており、それらの道のみがつながることはない。建物は標高320mから340mに集
中して、参詣道沿いに分布しており、この区間はほぼ尾根道となっている。現在は車輌道側にも建てられて
いる。作付けは主に稲で、Y字の上側のVの部分と集落の北西方向に、200アール26枚の棚田が斜面を下るよ
うに広がっている。集落の西の入り口に高原熊野神社が祀られている。また北の江戸時代創建の栖雲寺、東
の庚申塚まであたりが集落の範囲である。大坊集落は海に対する、高原集落は深い谷間に対する広い眺望が
見事であり、歴史的にも今日も他の行政単位を取り込む眺望を、文化的景観としていかに記述するかに留意
したいテリトーリオである。
注3:イタリア人にとって最小規模のテリトーリオとは、先達たちが地形を使いこなし、集まって住む町や集落を
つくり、周囲に自給自足するための田園と森を配し、長い年月をかけて維持してきた安定した定住環境を指
す。加えて農作物やその加工品が特産であれば、独特の田園風景が生まれる。
注4:テリトーリオの全体像の均衡を保つのは、社会生活、様々な生産活動や経済活動、文化的な交流から地方行
政にいたるまで、様々な対話の総体といえる。
注5:第1のステップは、自身の意識から利便性という地理的条件を引き剥がすことと言い換えても良いだろう。例
えば日本であれば、全人口の52%が3大都市圏に集中している。3大都市圏が素晴らしく、上秋津には魅力
がないとする強い先入観を取り払うのだ。
注6:第2のステップは、歴史の掘り起こしといっても良いだろう。従来の歴史的な資源は、有形文化財や記念物、
景勝地といった、周囲から切り離され特別なものとして評価されてきた。しかしテリトーリオやパエサッジ
ョはこうした価値づけされた複数の単体と、今だに発見も価値づけもされていない対象や場所の総体であ
る。その意味では、歴史はこれから見出すものとすらいえる。
注7:第3のステップは、まちづくりの失敗例として数多く見出せる。第1次産業を基幹産業とする地域に、工場や
遊園地を誘致すると、雇用の現場が創出され、税収というキャッシュフローの数値は増える。しっかりとし
た対話を重ねずに飛びついてしまうと、1次産業が生み共有していた世界観が人々の記憶から損なわれてしま
いかねない。
注8:拙稿を執筆する段階では、文献史料との照らし合わせをしていないため、史実との齟齬が生じるかもしれな
い。あくまでも地図と空中写真の分析とご理解いただきたい。後に齟齬が見つかる場合には、そこには何ら
か(期待的観測に基づく近い将来像を描いた、資料調査のみによる現地確認をしないまま描いたなど)の理
由があったと考えられる。
注9:災害の年までは、上秋津の右会津川や左向谷川に沿った平坦な土地には、農家が数軒ずつある程度の規模だ
ったという。当時の様子は例えば杉ノ原であれば、通称ヨモン平と呼び、川に向かって緩やかに下る丘状の
地形だった。その丘の裾は広い水田で、用水は背後の谷から引いていた。台風の被害は上秋津風穴から現在
の高尾橋の間で起こった土砂崩れと河川の増水、これらによって形成された自然堤防の決壊による鉄砲水と
土砂の流入だった。右会津川の曲がりの外側で河川敷と一続きとなった地形の平野や河原は「見渡す限り平
で(中略)立っている物 は何一つも無かった」状況になった。川上神社の境内には3mもの土砂が退席し、さ
らに奥畑川、稲屋川流域も「大岩を転がし、大木を浮かべ、沿線の田畑を総なでとした」ような状況だった
という。佐向谷川も同じような様相を呈したが、佐向口の川の出合い辺りで大渦巻きが発生し、上流から流
された人も含めて、多くの命が奪われたといった記録が残されている。
注10:台風による甚大な被害を受けて、国はすぐに復興事業に着手した。上秋津の今回のテリトーリオの平坦な土
地では園原に遊水地が確保され、水地一の井、二の井から水を引く灌漑用水路網も整備された。左向谷川上
流の迫戸地区に築かれた堰堤は、明治初期に国が招聘したオランダ人治水技師のヨハネス・デレーケの設計
による。しかし復興の期間は農作物の不足はもちろん、多くの遺体が流された湾内の海産物も流通せず、住
民は貧困に喘ぐ暮らしを送らざるを得なかったという。
注11:今回の上秋津の訪問に向けて、空中写真で補いながら歴代の地形図を通して、上秋津の大きな変遷を辿って
みた。注11~13はその分析の概要となる。
最も古い地形図は1911(明治44)年測量・1914年の出版後に補正を重ねた1916年版の5万分1地形図で、継
続して利用される版になった。上流に向かって右岸には岩内、園原、千鉢、杉原、左岸には平野、川原とい
った地名が読み取れる。この段階で右岸と左岸を結ぶ橋は旧岩内橋のみで、奇絶渓と海を結ぶ街道(当時の
地形図では国道)は右岸側にのみあった。左岸側は旧岩内橋から右会津川に沿って曲がり、平野の集落と千
光寺に至る里道(後の徒歩道、現在の幅員1.5m未満の道)が整備された。この道と交差するように現在の秋
津野ガルテンから川原、平野の集落を結ぶ、より細い里道が川上神社を終点としていた。右会津川に並行す
る右岸の街道、秋津野ガルテンから川上神社を結ぶ里道はそれぞれ、右会津川両岸の平坦な土地から、三星
山と高尾山から伸びる尾根線に向かって登る斜面に切り替わる地形を細かになぞり、集落はこれらの道沿い
に立地している。園原のみ川沿いを通る街道と斜面の麓に立地する集落の間に田が広がっている。また平野
から東の下畑の方向に延びる道筋は、現在の稲屋川に沿った谷道よりも、千光寺の裏から東へ向かう尾根道
が利用されていた。この高低差は約15~20m程あり、奥畑を過ぎたあたりから北上し、高尾山に至る里道だ
った。今日も利用されているこの道筋も、ほぼ明治期からほぼ変化がないと思われる。両岸の斜面の尾根線
が徒歩でのみ利用できる小径(現在の徒歩道)として記されていた。千光寺裏の小径と、右岸の園原の集落
から三星山に至る小径は、集落と直接の結びつきがあったことがわかる。ただしそれよりも細い、例えば
各々の果樹園に至る道までは描かれていない。平坦な土地には水田が広がり、斜面には広葉樹林の中に果樹
園が点在し、とくに杉原、平野、川原、下畑の傾斜地が拓かれていた。平坦な土地に広がる農地は1889(明
治22)年の大洪水で大打撃を受けた後の圃場整備の賜物だった。また昭和20年頃までは養蚕が盛んで、岩
内、平野、奥畑には蚕種製造業者があり、岩内には製糸工場もあっとされるが、桑園の分布は表現されてい
ない。斜面地の果樹園は右岸の集落、左岸の千光寺から東に向かう尾根線沿いに、主に分布していた。右岸
の集落であれば、裏の傾斜から標高差にして約140mまで、森の間に小規模な農地が点在し、稀に飛地状に尾
根線あたりにも分布した。
約40年後の1948(昭和23)年測量・発行の5万分1地形図(資修…資料修正)にみる秋津野でも、同じ地
名が読み取れる。このうち、川原の地名の当て字が河原に変わった。川中口橋と千鉢の集落に左岸から渡る
橋の2本が掛けられ、両岸を往来し易くなった。この川中口橋は地形図を読む限りでは現在の橋のやや下流、
現在の農業用水を利用した小水力発電所のあたりに掛かっているようだが、同年に米軍によって撮影された
空中写真と現在の橋の位置を比較すると、同じ場所のようである。地形図と空中写真を比較すると、前者に
描かれていないことが多い。主な項目を列記してみると、右会津川の護岸工事が施されていないかのようだ
が、とくに川の線形の外側にあたる左岸は、治水工事が施されていた。農地は、このテリトーリオの平坦な
土地の骨格として今日まで踏襲されている長方形格子の圃場が広がっている。地形図には描かれていない稲
屋川は、明らかに圃場の格子を基準とした人工的な流路が形成されていた。一方、川上神社の河川側と、そ
の向かいの杉ノ原と千鉢の農地は、河川敷と一体のようにみえる。左岸では平野から千鉢橋に向かう道、千
鉢川から上川神社に向かう道が開削され、平野と川上神社を結ぶそれまでの道よりも重要な道として扱われ
たようだが、空中写真では失われている。よって圃場整備は明治22年の大洪水の後の復興と、少なくとも第
二次世界大戦終結後に一度は行われたと推察できる。いずれにせよ、地形図は資修とあるので、現地調査せ
ずに描かれたと考えるのが妥当である。そのため、米軍撮影前の様子として理解したい。少なくとも、これ
らの橋と道によって、右岸左岸の結びつきが密接になり、今日の周囲を尾根に囲まれたテリトーリオのイメ
ージやコミュニティの意識が形成された時代だったと想像できる。集落規模としては岩内が市街化し、平野
から川上神社に向かう道沿いに家屋が増えた。この時代になると両岸の斜面とも、尾根線まで果樹園が覆う
ようになった。この5年後の1953(昭和28)年測量・発行の5万分1地形図(応修…応急修正)からは、斜面
に立地する果樹園の間に苗木畑も点在するようになったことが読み取れる。また岩内にあった役場が久保田
川右岸の現県道209号(長野上秋津線)の旧道沿いに移転した。
注12:1965(昭和40)年測量・1967年発行の地形図から縮尺が2万5千分1となり、情報量が増えた。稲屋川が描
かれ、これまでの地名の表記に加え、川沿いに平岡という地名が加わった。また川中口発電所の記号も記さ
れた。こうした表記上の取捨選択はさておき、この地形図からは大きな変化を読み取れる。右会津川の両岸
にはおそらくあらためて部分的に堤防が施され、土木的な仕切りが強調される風景になった。また右岸の街
道の曲がりが、部分的にゆるやかな大きな線形に変化した。左岸の平坦な土地では、森橋が架けられたこと
によって、道路付けに変化が生じた。左岸に広がっていた田に新たな軽車道が開削されたことに合わせ、秋
津野ガルテンと川上神社を結ぶ道が左岸の主要な生活道として整理され、さらに北に延長されて右岸の街道
に新たに架けられた川中口橋によって接続した。居住地についても大きな違いが現れた。杉原、千鉢、園原
の3集落が、左岸では千光寺の北側斜面の数軒が、陸軍陸地測量部の時代には「園囿(えんゆう)」、本地
形図の凡例には「樹木に囲まれた居住地」とされた地図記号で表現されるようになった。左岸のこれ以外の
集落は家屋の記号で描かれているのみで、集落形態が異なっていたことを窺える。平野では傾斜の麓にあっ
た道から、右会津川左岸の平坦な農地の只中に家屋が建った。農地は右会津川の両岸の平坦な土地の田の間
に果樹園が点在するようになった。一方、稲屋川は人工的な線形をしているので、遅くともこの実測が行わ
れた頃には用水として活用すべく、圃場の整備事業が行われたと考えられる。この作付けの変化は1958年測
量の5万1地形図と1967年測量の5万1地形図からも読み取れるものの、この果樹が柑橘類であったとまで
は判断できない。また左岸に千鉢橋の袂を起点として約500mの直線の軌道が設置された。右岸と左岸が視覚
的に一体となった田の広がりに、土木、建造物、作付け、農業機械が入り始めた転換の時期を記録した地形
図といえる。その後はこの一体がゆるやかに変化したことを、1974年測量・1975年発行、続く1979年測量・
1981年発行の地形図が示している。具体的には、左岸の秋津野ガルテンと川上神社を結ぶ、平坦な土地を縁
取る生活道に沿って家屋が、また平坦な土地の全域で果樹園が増加した。稲屋川が平坦な土地から谷地形に
入ると、川沿いの道に面して建物が点在するようになった。これらの建物はその軒数から、本地形図よりも
前から立地していたと考えられる。斜面地の果樹園の耕地面積の増加は目覚ましく、その広がり方は、集落
から斜面を上に向かう場合と、尾根線に点在していた農地を結ぶ場合があった。さらに1974年の測量時に
は、尾根道に到達するための道のネットワークの殆どが軽車道として整備され、傾斜地における営農環境の
改善が図られていったことが判読できる。一方、70年代の2度の測量の間では、新たに表記された徒歩道と
消去されたものがあり、所有や管理の方法にたいする地形図を制作する上での解釈の違いが作用していると
考えられる。しかし斜面地の果樹園が着実に耕地面積を広げていったことは明らかである。このテリトーリ
オの大きな構造的変化を記録したのは、1988年測量、1990年発行の地形図である。田辺の市街地から龍神村
に向かう街道が主要地方道田辺十津川線(現在の県道29号田辺龍神線)として、左岸の堤防を兼ねた道路を
改善、延長するかたちで、1981年の事業として造成されたという。実際に1982年撮影の空中写真には、すで
に開通した様子が写っていた。そのため、これまで街道として利用されてきた右岸の道は生活道の位置付け
となった。主要地方道は川上神社から川中口橋に向かう尾根の麓に沿った道と立体交差してさらに北進し、
新たに架けられた高尾橋で右岸の川中口発電所あたりに渡るルートを辿った。左岸の傾斜地の麓の地形を辿
る生活道は、カルバートによる簡素な立体交差によって杉ノ原に渡る道筋が維持された。右岸の園原の集落
は森橋、千鉢の集落は千鉢橋によって主要地方道と直接結びついた。左岸の平坦な農地では、農業以外の土
地利用が見られる。千鉢橋から左岸の尾根の麓に沿った道と稲屋川の交わるあたりに向けて、新しい生活道
の規模の直線道路が開削された。また、尾根沿いの集落では、右会津川側、つまりこの時期まで畑だった側
に建物が建ち始めた。右会津川の両岸の平坦な農地に分布していた作付けは、田と果樹園の双方が混在して
いた9年前の測量時と比較すると、それぞれがまとまり、また果樹園の面積割合が拡大した。田と果樹園のモ
ザイク状だった風景は、ひと種類の作物に対して面積が広い合理的な耕作地としてまとまり、広々と見える
風景に変化を遂げた。また傾斜地に分布する果樹園も、測量時から着実に広がりを見せている。
注13:1998年測量・1999年発行の地形図では、とくに右会津川の左岸の平坦な土地では田が減り、ほぼ果樹園とな
った。千鉢橋から左岸の尾根の麓に向かって開削された道はなくなり、幅員3m未満の道(これまでの軽車
道)が従来の田畑の長方形格子に沿って縦横に張り巡らされた。これらの道の大部分は果樹園の中を通過し
ていたが、単体の建物が分布するようになり、一部では宅地化が始まった。河原では果樹園を切り開き、平
均斜度が約27度(5寸勾配)の傾斜をもつ土地をひな壇成形した宅地分譲や、その東に位置する鏡子山城址近
くの緩勾配の高台にゴルフ場が開設された。この宅地造成は、長年に渡って斜面地の麓に水平方向に広がり
を持っていた集落形態とは異なり、景観に変化をもたらした。この年代になると、斜面地全域に果樹園が広
がり、もはや果樹園の間に勾配の急な小さな自然林が点在するような状況となっていた。また多くの幅員1.5
m未満の道(これまでの徒歩道)が最大3m幅に造り替えられ、傾斜地の果樹園を支えるための基盤整備も進
められたことが分かる。尚、この年代から杉原の表記が杉ノ原になった。テリトーリオ全域を見ると、この
20世紀末の環境でしばらく安定したものの、県道209号沿いの建物が徐々に増え始めたことを2006年測量・
発行の地形図から読み取れる。
2016年実測・発行の地形図から、表現方法が変わり、地図記号から「樹木に囲まれた居住地」と「植生
界」の表記がなくなった。前者に関しては地形図の表現そのものが詳細になったため、右岸と左岸の集落の
空間構成が異なることが把握できた。右岸の杉ノ原、千鉢、園原の各集落は旧街道に沿っていたものの、そ
こから枝分かれした幅員3m未満の道に住居群が取り付くかたちで居住地を形成し、旧街道はその縁を通って
いた。居住地内の道は交差型、ロの字型、バイパス型と一定ではない。建物が密集する場所の間に果樹園が
点在している。その点、左岸の集落形態は、生活道に沿って建物が並ぶかたちだった。一方、「植生界」の
表記がなくなったことで、田と果樹の面的な広がりが読み取れなくなったため、農業の風景は空中写真が情
報源となった。右会津川左岸から傾斜地の麓の生活道の間では、幅員3m未満の道が延長され、生活道と県道
29号を結ぶ幅員3m未満の道が増えた。県道209号沿いの建物も引き続き増えたこともあり、県道沿いや県道
側に寄った位置、すなわち平坦な農地の只中に建物が増え、市街地と農地が混交した状況が形成されてた。
こうして上秋津の最小規模のテリトーリオの変遷を振り返ると、右会津川の両岸の生活道に挟まれた平坦
な土地の利用は目まぐるしい変化を遂げた。水田から次第に果樹園となり、土地利用そのものも農地が宅地
化していった。各集落の家屋は減少の傾向を示し、集落の密度は低くなっているものの、十分にその空間構
造を残している。一方、集落から斜面を登るように、また尾根筋から斜面を下るように開墾された斜面地
は、その殆どが果樹園となり、その土地利用を変えずに今日に至っている。
注14:文化財保護法に定められた重要文化的景観の選定を考えると、制度的にはまず、景観計画を立て、その中に
文化的景観地区を定め、さらに重要文化的景観を文部科学省に申請するという手続きが必要となる。ただし
本来はテリトーリオの「自然と人の協働から生まれた成果」を繙いてから、景観計画に着手するのが正しい
道筋と考えている。
注15:都市であれば、街路を建物の壁が囲み、公共空間と私的な空間の区切りが明確で、分かりやすい。住宅地の
ように庭があれば、そこは個人が管理する屋外空間が隣り合い、その関係が繰り返し、街路をはじめとした
公共空間よりもはるかに広い半公共空間になる。そして都市から外に踏み出すと、田園であれ森林であれ、
殆どの空間が半公共空間になる。
注16:このアンケート結果を詳しく分析すると、今回の調査の対象とした最小規模のテリトーリオの丘陵に立地す
る果樹園や尾根そのものの存在感、高尾山、三星山、衣笠山といった広い眺望、祭事や地蔵、営農風景に対
する関心は薄かった。ほぼ同じ評価だったのは、開花した梅林の風景、古い家が多い昔ながらの街並み、奇
絶峡の渓谷、子どもたちが公園や学校グランドで遊ぶ姿、以上の4項目だった。前者2項目は身近な風景、
次が観光名所、最後は子育ての現場である。一方、幹線道路沿いに立地する大小の店舗にたいしては古くか
らの住民の方が肯定的だった。
参考文献
ヴィットリーニ, マルチェッロ; 陣内秀信(訳)「都市の思想の転換点としての保存」『都市住宅 』7607, ヴィットリーニ (責任編集), 陣内(編集協力), 鹿島出版会, 1976.7.
陣内秀信『都市のルネサンス』中公新書, 1978.
陣内秀信『イタリア都市再生の論理』鹿島出版会, 1978.
陣内秀信『都市を読む』鹿島出版会, 1988.1
陣内秀信; MANCUSO, Franco; 植田曉; 内野晴日 & et al.「ヴェネト : イタリア人 のライフスタイル」『プロセスアーキテクチュア』109, 陣内(編), プロセスアーキテクチュア,1993.4.
ファリーニ, パオラ; 植田曉 & et al.「イタリアの都市再生」『造景』別冊1, 陣内(監修),ファリーニ&植田(編集), 建築資料研究社, 1998.11.
木村純子; 陣内秀信; et al.(編著)『イタリアのテリトーリオ戦略』木村, 陣内(編著),白桃書房, 2022.3.
木村純子; 陣内秀信; et al.(編著)『南イタリアの食とテリトーリオ』木村, 陣内(編著), 白桃書房, 2024.3.
木村純子; 陣内秀信; 植田曉; et al.(編著)『イタリア流テリトーリオの底力』木村, 陣内(編著), 白桃書房, 2026.3.
恵谷浩子「風景を読み,生きるを考える 一日本における文化的景観20年」『ランドスケープ研究』88-1, 日本造園学会, 2024.4., pp.22-25.
上秋津小学校育友会『ふるさと上秋津-古老は語る-』上秋津校友会, 1984.3.
石川初『思考としてのランドスケープ』LIXIL出版, 2018.7.
神吉紀世子; 御前敏博「地方小都市近郊農村における混住化と住民意識 その1: 近郊域内人口移動の構造」『2001年度日本建築学会大会(関東)学術講演梗概集』E-2, 日本建築学会, 2001.07., pp. 637-638.
御前敏博; 神吉紀世子「地方小都市近郊農村における混住化と住民意識 その2: 住民の景観と市街化への評価」『2001年度日本建築学会大会(関東)大会学術講演梗概集』E-2, 日本建築学会, 2001.07., pp. 639-640.
御前敏博; 神吉紀世子「和歌山県紀南地方の柑橘類産地における農村集落の変容過程に関する研究 : 和歌山県田辺市上秋津地区を事例に」『日本建築学会大会(北陸)学術講演梗概集』E-2, 日本建築学会, 2002.07., pp. 603-604.
御前敏博; 神吉紀世子「農村集落景観保全のための概念-Landscape Use-の提案 : 和歌山県田辺市上秋津を事例として」『日本建築学会大会(東海)学術講演梗概集』E-2, 日本建築学会, 2003.07., pp. 653-656.
宗田好史『なぜイタリアの村は美しく元気なのか-市⺠のスロー志向に応えた農村の選択』学芸出版社, 2012.8.
植田曉「イタリアにおける都市・地域研究の変遷史-チェントロ・ストリコからテリトーリ
オへ」『水都学 III』陣内, 高村雅彦編集, 法政大学出版局, 2015.2, pp.167-209.
植田曉「戦後イタリア都市計画による農業地域とその景観の保存活用に関する通時的研究」『日本建築学会 計画系論文集』第81巻第719号, 日本建築学会, 2016.1, pp.237-247.
植田曉; 陣内秀信; マッテオ・ダリオ=パオルッチ; 樋渡彩『トスカーナ オルチャ渓谷のテリトーリオ』古小烏舎,2022.9.
インターネットサイト
秋津野塾
https://akizuno.net/index.html
農業集落境界(2026年3月31日閲覧)
https://www.machimura.maff.go.jp/shurakudata/rcom_map/rcom_map.html
紀南アートウィーク
https://kinan-art.jp
みかんコレクティブ
https://kinan-art.jp/info_cat/mikan-collective/
みかんダイアローグ vol.8:『テリトーリオとコモンズ農園-土地の物語を未来へつなぐ』
植田曉×廣瀬智央
https://kinan-art.jp/info/20771/
アートプロジェクト『コモンズ農園』関連 座談会レポート
https://kinan-art.jp/info/21030/
【地形図・空中写真】
国土地理院発行5万分1地形図
『田邊』大日本帝國陸地測量, 1911(測量), 1916(発行)
『田邊』地理調査所, 1948(測量), 1948(発行)
『田邊』大日本帝國陸地測量, 1953(測量), 1953(発行)
国土地理院発行2.5万分1地形図
『秋津川』国土地理院, 1965(測量), 1967(発行)
『秋津川』国土地理院, 1974(測量), 1975(発行)
『秋津川』国土地理院, 1979(測量), 1981(発行)
『秋津川』国土地理院, 1988(測量), 1990(発行)
『秋津川』国土地理院, 1974(測量), 1975(発行)
『秋津川』国土地理院, 1998(測量), 1999(発行)
『秋津川』国土地理院, 2006(測量), 2006(発行)
『秋津川』国土地理院, 2019(測量), 2019(発行)
国土地理院空中写真
『田辺』米軍, 1947.11(撮影), USA-M670-1-91
『串本』国土地理院, 1965.5(撮影), KK651Y-C2-5
『田辺』国土地理院, 1974.6(撮影), MKK743X-C3-8
『田辺』国土地理院, 1974.6(撮影), MKK743X-C3-8
『田辺』国土地理院, 1982.5(撮影), KK824X-C16-11
『田辺』国土地理院, 1992.5(撮影), KK921X-C15-6
『田辺』国土地理院, 2017.4(撮影), CKK20173-C4-11
